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あの日『逃げられないからな』と耳元で囁いた王子。
慌ててしまって『逃げられる気がしない』と思ったけれども、すぐにはっと我に返った。
この流れは明らかにおかしい。
何が?なんて決まっている、すべてがだ。
史上最悪の出逢いから今日に至るまで、どう考えても『優しく抱きしめられる』結果に結びつく要素がない。
噂と王子とガラスの靴。
この3つが指し示すものはなんだろうかと冷静になって考えると以外に簡単に答えに辿り着いた。
これはきっと復讐か錯乱…。
そのどちらかだわ、それしか考えられないもの。
貴族特有の何重ものオブラートに包んだような話し方は好きではないので単刀直入に聞いてみた。
『スナイル様、もしかして三日前のこと根に持っているのですか?』
『いいや、そんなことは全くない』
そういう王子は嘘を言ってるようには見えなかった。
『それならばお疲れですか?』
『まあ少しは疲れているかな、この三日間禄に寝ていないから。だが大丈夫だ、心配するほどじゃない。公務で忙しい時には睡眠時間は殆どないから慣れている』
寝ていないのが当たり前の生活が身体に良いはずはない。もしかしたら大分前から体を壊していたのかもしれない。でも国民にはその事実を伏せて完璧な王子の仮面を被り公務に取り組んでいたんだろう。
そしてついに精神にまでその影響が出て……。
ああ…そんな、やはり錯乱なのね。
お可哀想に……。
嫌な王子だと思っていたけれど、重圧が続く公務のせいでこんな事になったと思うと痛ましい。
こういう時はどうすればいいのだろうか。
否定はいけないわ。
きっと彼を追い詰めてしまうもの。
優しく話を合わせましょう。
王子がもとに戻るまで…。
錯乱している王子のことを誰も止めていないということは、周囲も私と同じ判断をしたのだろう。
『今を否定せずに自然回復へ導こう』と。
だから私も王子の抱擁を黙って受け入れた。
一瞬王子と一緒に来ていた騎士や従者が凍りついた気がしたけれども、そのあとパラパラと拍手が聞こえてきたから、これで正解なんだなとほっとした。
◇◇◇
『リリィ、会いに来た』とどんなに忙しくても毎日時間を割いて会いに来る王子。
正直心配で仕方がない。
これでは会いに来ることによってますます忙しくなり、症状が悪化してしまうのではないだろうか。
その証拠に症状が改善する兆しは一向に見えない。
日に日に私を見る目が甘くなっていく。つまり悪化しているのだ。
「スナイル様、無理をなさらないでくださいませ」
「ふっ、無理なんてしていない。リリィに会うと元気が出るんだ」
王子は心からそう言っているけれども、病んでいるので彼の言葉は当てにならない。
後ろに控えている護衛騎士ガードナー様に視線だけで『本当に大丈夫ですか?』と訊ねると、その意図を理解してくれた彼はコクリと頷いてくる。
つまり、これでいい…のね。
良くなっていないけれども、方針は曲げない…と。
私の前で嬉しそうな顔をしているスナイル王子に『私もスナイル様に会えると元気が出ますわ。来てくれてありがとうございます』と言うとギュッと抱きしめられた。
「リリィ…本当に可愛いな」
低音だけれども優しい声音で甘く囁いてくる。
思わずぼーっとして腰から力が抜けてしまいそうになる。
これは錯乱しているからであって深い意味はない…と分かっている。
治療の過程であるからこそ、ガードナー様や従者も見て見ぬふりをして止めることはない。
それどころか温かい目で見守ってくれている、まるで応援するかのように。
そうよね、これは治療だもの。
べ、別に私も疚しい気持ちなんてないわ。
客観的に『素敵だな…』て思っているだけで。
そうよ、極々一般的な感想だわ。
でもちょっと恥ずかしいし、なんだか胸の鼓動も速くなっている。
これがルイーズが言っていた動悸なのかもしれない。『歳をとったらなるものです』と言っていたけれども、若くてもなるようだ。




