題:8
第二章
周囲の喧騒で目が覚めた。まだ気怠くて体を起こせなかった僕の身体の上を小さな何かが駆けていく。鳩尾を踏まれた僕は「ぐっ!」と苦悶の声を上げて寝かされていた柔らかい場所から硬い床へと転げ落ちた。まるで天国と地獄だ。
「ああっ、駄目だよケリー!イイさんの上を走っちゃ!」
ケリー?誰だ?床に手を付いてゆっくりと起き上がると、エプロン姿の青年と目が合った。声の主は腰が低そうな彼らしい。申し訳なさそうに「ごめんなさい」と頭を下げた彼の銀髪の上に手の平に収まるほどの黒毛のネズミが飛び乗った。無防備な僕の身体をコースに爆走していった憎き敵はこいつらしい。
「ほら、ケリーもイイさんに謝って!」
青年の声に応じてケリーらしいネズミもペコリと鼻を青年の銀髪にくっつける。あまり許そうとも思えなかったが、それより彼が僕の名前を知っていることの方が問題だ。思い出せる最後の記憶はカヨの幻影。不審な男を探して寂々とした室内を見回すと、彼は変わらず壁に背を付けてこちらを見ていた。刺すような視線から逃げるように目線を青年に戻す。
「何故僕の名前を……?」
答えは背中から癪に障る声と共に帰ってきた。
「君が呆けた顔で寝ている間に自己紹介を済ませたんだ。知らないのは君と赤髪の白雪姫だけだぞ。僕は先に進んでくれと言ったんだが、何人かは君が起きるまで待っていてくれてたんだ。挨拶代わりに地面に頭を擦り付けて謝った方がいい」
「ふざけるな。なんで謝らなきゃいけないんだ」
振り返りもせずにそう言い放つと僕は床に落ちたコートを拾い、自分の眠っていたソファーに腰を下ろす。布地はじんわりと湿っていて、僕の嫌な汗を吸いとってくれていたことが分かった。悪夢を見ていたようだが、何も覚えていない。前回のゲームが終わった後から頭痛と共にこういう眠りが続いている。
「エイルさんと仲良いんだね。仲良しなのはいいことだよ」
「「冗談は勘弁してくれ」」
青年の称賛に僕らは声を揃えた。タイミングが一致さえしていなければまともな否定になっていたのだろうが、口を揃えての否定は却って完全な肯定を招く。青年は噴き出した。
「ふふっ、僕とケリーとは違う意味で仲良しなんだ。そうだ、僕は青葉梔子。動物園で飼育員をしているんだ。よろしくね」
クチナシ青年は僕に握手を求めてくる。乱暴にそれを握り返すと、手の平の中で違和感に気付く。くるりとクチナシの右手を上側に向けると、彼の手の甲は僕よりずっと小さかった。指だけは普通の長さだからなおさら異常に見える。まるで動物のようだ。
「あっ……、これは先天性の病気なんだ。気に障ったかな、ごめん」
彼は慌てて手を腕より長い袖の中に引っ込める。この柔和な性格は先天性ではない。沈痛な表情をした彼の深層に思考が触れる前に考えるのを止めた。僕は過去にも、彼の生涯にも立ち寄りたいとは思わない。
「いや、気にはしない。両親から受け継いだものだろ?他人がとやかく言えるものじゃない」
自分に言い聞かせるように言うと、背後から「随分と道徳に沿った答えだ。そういうの嫌いそうなのにね」とわざとらしい拍手が聞こえてきた。
少々苛ついた僕のところに「否定は出来ないが、肯定も出来ないな。時には他人が気付かせてやることが必要な場合もある」と落ち着いた低い声がさらに横から割り込んでくる。壁際に居た男は影もなくソファの前に近寄ってきていた。
「鶙鵳さん、何の用?」
棘の付いた声に振り向くと、先程まで僕を小馬鹿にしていたエイルが帽子の男に牙を向いている。彼女も僕と同様、テイケンと呼ばれた男の隠し持つ武器を警戒しているのか、はたまたそれ以外の事情か。兎も角僕もエイルに加勢しようと男を睨む。男は僕らの視線を食い殺すように口を開いた。
「なぁに、目の前で倒れた仲間が目覚めたら声を掛けるのは当然だろう。それともなんだ、私が彼に危害を加えようとしていると?それは心外だなぁ」
不精巧な笑顔は却って不気味さを助長させていた。自然と立ち上がっていた僕は背の高い彼の前に立った。白髪の下から覗く鋭い眼光はまさしく獲物を狙う鷹だ。後退すればするほど奴の罠に嵌っていく。ならば、立ち向かうしかない。
「もう紹介されていると思うが、御霊伊依だ。貴方とは関わりが多くなる気がする、その時は助け合おう」
僕が手を差し出すと一回り大きな手で握り返される。どうやらここで論争という事態は避けられそうだ。
「ああ、申し遅れたね。私は玄野鶙鵳という。君のような賢い人間は嫌いじゃないよ。気軽にテイと呼んでくれ、恐怖政治に対抗すべく手を取り合うとしようじゃないか。ハハハ」
彼は先ほどよりかは正しく笑っているが、それでもそれはまだ偽物。僕はまだいつか狩るべき獲物として映っているに違いない。緊張が形となって露見する前に手を離した。
これ以上この男と一緒に居られないと感じて出口の扉に目を向ける。ふと僕は居なくなっていることがおかしい人物が部屋の中に居ないことに気付いた。