帝国軍野営地にて もうひとつの爪痕
帝国軍野営地では、辺り一面がおびただしい数の負傷者で溢れかえっていた。ケイレスとジェノンは、兵舎の傍を通りながらバルディアの天幕に向かっていた。
「ひどくやられたな。ジェノン君はあの女将軍と戦っていたのか?」
「ええ、我が軍が誇る重装兵もほとんど失ってしまいました。指揮官が最前列で突っ込んでくるなど非常識なことですが、あの圧倒的な武力をみると、合理的な戦い方に見えてしまいます。そのあまりの強さから、部下たちの中では”穿ち姫”の異名が浸透し始めたとか……」
「あの女将軍相手では仕方あるまい。拮抗させただけでも見事なものだ。"穿ち姫"か……既に兵たちにその呼び名が浸透しているのであれば、正式に用いてもよかろう」
「ケイレス殿が戦っていたのは、初戦で戦術指揮を担当していた方の指揮官でしたか?」
「ああそのようだ……私も正面の敵将を抜くことは叶わなかった。彼女の用兵も。相変わらず見事なものだったよ」
「全軍後退の決断をバルディア様がされたのは、中央軍が強力な敵の伏撃にあったからと聞いておりますが、敵は壕の中に本当の主力を伏せていたということでしょうか?」
「報告では、数百もの怪物が中央軍を蹂躙したようだぞ。見てみろ」
ケイレスはとりわけ重症の負傷兵が収容されている兵舎を指した。そこに横たわっていたのは、槍や剣で受けた傷ではなく、巨大な爪で胴体を切り裂かれ、鋭い牙で喉を貫かれた痕がある遺体だった。そのような傷をおって生きている者も中にはいたが、たとえ致命傷を避けていても傷口が化膿し始めている。直ちに高度な治療を施さなければ助からないだろう。
しかしもっとも帝国兵達に深く刻まれたのは、心の傷である。巨大な怪物に一方的に屠られた経験が反芻され、武器を持てないほどに手が震えている者も少なくない。とりわけ兵達に心傷を刻み込んだのが、その中でもひときわ巨大な漆黒の餓狼ジルヴァであり、帝国兵たちは彼を"魔狼"の名で呼び始めていた。
「ここの者達の戦線復帰は当分難しそうですね。帝国に帰還させる手はずを整えましょう」
ジェノンは現状を理解し、被害の深刻さを改めて受け入れた。
「さて、バルディア殿に報告させてもらうか……」
2将はバルディアの天幕に入った。バルディアは険しい顔で軍議の席にすでについている。
「座りたまえ。まずは戦闘の損害と、残存兵力の報告を聞こう」
ジェノンとケイレスも着席し、ケイレスが部隊の報告をはじめた。
「我が方は先の戦闘で騎兵150騎と歩兵3000を失っています。特に重装兵のほとんどが討ち取られてしまいました。現在運用できる戦力は騎兵850騎と歩兵17000となります」
「敵に与えた損害は分かるか? 概算で構わん」
「両翼の戦闘で1000から1500は減らしたはずですが、殺傷比では大きく負けていますね。シルメア軍の個々の戦闘力の高さもさることながら、地の利を得ている影響が大きいと存じます」
「とはいえバルディア殿の後退指示の迅速さのお陰で、中央軍の被害は前列のみで抑えられました。まだ帝国軍は数的優勢を保ち続けています。敵の切り札の部隊も怪物の群れだと判明しましたし、奴らを弓矢部隊で徹底的に叩けば十分勝てると考えます」
ジェノンは継戦可能であることを主張した。
「確かに、敵の手札は全て明かされたと言っていいだろう。しかし明日以降の攻勢で敵軍を抜けると思うか? ケイレスよ」
「厳しい意見ですが、単調な攻めでは困難でしょう。彼らは今頃、丘にさらに壕を掘り進めているはずです。極端な話、壕が丘全体を横切るまで広がってしまえば、彼らは壕の中でただ控えるだけで今日の中央軍と同じ状況がつくれてしまいます。そうなっては両翼から崩していくこともできなくなるでしょう。万全に供えられた防御陣にただ突撃していくのは得策ではありません。仮に今日の殺傷比で見積もると、敵軍を撃破する頃には我々は全滅に近い損害を受けているでしょうな」
「それほどまでに敵の戦力を高く見積もられますか?」
「単純に兵が強いだけなら組しようがあるのだが、今日の戦いはそもそも敵方が有利な地形に先に布陣し、さらに弓矢避けに壕の構築まで着手していたことに注目すべきだ。以前にも指摘した通り、彼らの指揮官には、戦いは合戦の前の下準備こそ重要であることに気が付いている者がいる。獣風情と侮っていると火傷をするぞ」
「シルメアの屈強な兵達を優れた用兵家が動かしているとするならば、いかに兵数で勝る我々とて簡単に勝てる相手ではないな」
バルディアもシルメア軍を獣の群れではなく、優れた軍隊として認識を改めることになった。
「敵の分析も出揃ったところで、本題に入ろう……。丘に布陣する敵をいかにして突破する?」
バルディアの問いに、ケイレスは回答する。
「手っ取り早いのは、相手を丘から引き離すことでしょうね。特に壕に潜む相手を引きずり出せば、全て弓矢の斉射で対処できるでしょう」
「まさにその通りですが、丘から引き離す手段はどのようにするのですか?」
ジェノンはケイレスに質問する。
「そこなのですが、バルディア殿にひとつ確認です。我々はシルメアに侵攻して以降いくらか集落を発見しています。非武装の村への襲撃・略奪は一切を禁じる方針に間違いありませんね?」
「無論である。我々は軍であって賊ではない。軍規にもあるように、一般住民へ危害を加えることは許されん。それにシルメアは、併合後は帝国領となるのだ。つまりは皇帝陛下の所有物になるということだ。陛下の領地・領民を踏み荒らす行為は万死に値するぞ」
「そうですよね。例えば我々が行軍してきた途中にあった集落を襲えば、丘の軍はおそらく救援に駆けつけてくるでしょう。追ってきた敵軍を野戦にて反転迎撃すれば勝機はあります。ですがこの方法は今説明された我々の行動理念に反しますよね」
「そういうことになる。使うつもりのない策を提示するとは、ケイレスらしくないではないか」
「では結論から申しましょう。我々はここから後退して集落を襲う"ふり"をしましょう。実際に行うのは集落を包囲するまでです。向こうからすれば集落を襲われる可能性がありますから、この行動は捨て置けません。シルメアの指揮官も、さすがに帝国の軍法までは知らんでしょうからね。一方我々は集落に戦闘行動をとっているわけではないので、特に軍規に触れることはありません」
「!!」
ジェノンはゴクリと固唾を飲んだ。
「しかし敵が丘を捨てて追撃してくるかは不確定ではありませんか?」
ジェノンの疑問は当然である。偽装と見破られ追撃してこなければ、シルメア軍にさらに陣地構築の猶予を与えるだけである。さらにここはシルメアの領内であり、時間経過とともに敵の増援が現れる可能性も否定できない。
「確かにジェノン君の指摘の通り、追撃してくるかは五分五分といったところでしょう。そこで敵が丘の陣から動かなかった場合ですが……この際いっそのこと帝国領に引き上げるのはいかがでしょう?」
ケイレスの提案に対し、バルディアが眉に皺を寄せて答える。
「本作戦の目標であるシルメア併合を、事実上放棄することになるな。その考えの根拠はいかに?」
「遺憾ながら、我々の現在の戦力ではそのように判断せざるを得ません。敵が追撃してきて単純な野戦に持ち込めばまだ勝機はありますが、敵がこのまま丘の陣に籠り続けた場合は、今の我々の戦力で敵を撃破することは困難です」
「シルメアの築城技術の稚拙さから、拠点攻撃用の部隊をほとんど連れてこなかったのも裏目に出てしまったな」
「そうなりますね。したがって現状のままシルメア内にとどまり続ける意味はなく、一度帝国内に退いて軍団を再編成すべきです。個人的には炎の魔法を使える魔道旅団あたりを連れてくるべきかと思います」
ケイレスの現状分析は妥当なところである。シルメア軍が何があっても丘から動かないのであれば、現状の戦力では丘を越えて王都へ迫ることは断念せざるを得ない。その場合兵站の観念から敵国の領内に長く留まる必然性はなく、戦力が保たれているうちに撤退するべきだろう。
「前半の分析に関しては、私も認めざるを得んな。私も陣中を見回ったのだが、戦力の損失以上に兵の士気低下が著しい。特に私の部隊は餓狼種に手痛くやられてしまったからな。奴らが再び眼前に現れては、おそらく満足に戦えまい」
バルディアはケイレスの進言を受け入れたうえで、後半の提案については釘を刺した。
「だが魔道旅団に援軍要請を送ることは、基本的にあきらめた方が良い。もともと我々と魔道旅団は犬猿の仲で、今もそれぞれが功績争いをしている。といっても魔道旅団のメルフェトが、一方的に我々に対抗意識を燃やしているようなものだがな。魔道旅団は今、隣国のウルガルナに侵攻中とのことだ。対抗組織である我々の方面へ送る援軍などあるまい」
「やはり無理ですか。獣には炎でと思ったのですが……仕方ありませんね」
「とはいえ当面の軍団の方針は、ケイレスの示す通りで良いだろう。早速兵に通達して後退する準備を始めたまえ」
「「御意にございます!」」
帝国軍は現在の戦場を放棄し後退することが決定した。将たちが席を立とうとした瞬間、血相を変えた伝令兵が天幕に飛び込んできた。
「急報! 急報でございます!」
「何事か?」
バルディアは伝令兵に報告を求めた。
「皇帝陛下より直属の指令文を預かって参りました!」
伝令兵は懐から皇帝の印が押された書簡を取り出した。バルディアは封を解いて中の文書を確認する。
「これは……」
その中にはこれまでの軍議の内容が全て覆る勅命が書かれていたのである。
シルメア軍同様に手痛い損害を被っていた帝国軍。彼らに届いた勅命とは……?次回に続きます。




