普通の淑女のように
それは、麗らかな春の日差しを感じる日だった。
「・・・は?・・・」
カチャリ、とティーセットを置く音がする。
目の前のお方に準備している最中だった。
青天の霹靂とはこのことだろうか。
人は思ってもいないことを言われると動きを止めてしまうのだということを
あとになってしみじみ感じる出来事だった。
穏やかな声が響く。
この方のために準備していた茶器を、私の手からそっと奪い、台に戻された。
その手をまるで幼子のようにじっと目で追うことしかできない。
茫然自失と言ってもいいかもしれない。
つい先ほど言われた言葉を頭が理解できずにいる。
茶器を置いたその手がそのまま 今度は私の腰に添えられた。
馴染みのある愛しい匂いが鼻を掠める。
私の耳元へ口を寄せられ、囁くように掠れた声が聞こえた。
「もう一度言おう。
・・・結婚しよう」
ああ、聞き間違えではなかったのかと、ぼんやりと思った。
身じろぎをすると、目が合う。
暖かい、愛しい目。
・・・でも。
少しずつ霧が晴れるように頭も働き始める。
「失礼を承知でお尋ねいたします。
どなた様と、どなた様が、ご結婚されるとおっしゃっているのでしょうか?」
とたんに片眉を跳ね上げられ、口元が歪む。
ちいさな ちいさな ため息とともに
「俺と、おまえが、だ」
と、ことさらゆっくりと発音された。
チチチチ・・・と、外で小鳥の囀りが聴こえる。
普通の淑女であれば、愛しいお方からのプロポーズに泣いて喜び「はい」と答えるところだろう。だが、私たちの関係は、そう簡単にいかない。実は秘密裏に付き合っていたとしても、だ。
「なぜ?」
今頃になって。と、言葉を飲み込む。
色々あって、そのようなことを夢見る時期は過ぎたのだ。
文句の一つも付けたくなるのをぐっと堪える。
「お前は、俺を愛しているのだろう?
ならば、”はい”と言うだけで良い」
はあ、ずいぶんな発言でいらっしゃいますね。
何様だ・・・って宰相様か。
ついでに現王の腹違いの兄君でもいらっしゃる。
兄弟で、弟君の方が国王なのはまあ、いわゆるご実家の実力とか王妃の序列とか色々とメンドクサイ争いを避けた結果なわけだが、ご兄弟の関係は良好だ。
まあ、それはともかく、
「何がどうして そのような判断に至られたのか、理由も説明もなくお返事することは致しかねます」
目を見て力強く答える。
本来なら、王族にこのようなことを言えば不敬として処断されても文句を言えないほどだが、私もこの方の愛を疑うこともなく甘えている証左だろうと、心の中でひっそりとため息をつく。私の身分は子爵家の次女。貴族としては可もなく不可もない位置にいて、王族など本来なら雲の上のお方。言葉を交わすのもおこがましいほどだが、このくらいの発言では罰せられることなどないと、信じているから言えることなのだ。
「まあ、お前はそういう女か」
近い。
抱きすくめられる。
この温もりに弱いことをよくご存じですね。何も考えず、ただうっとりとほおずりし、従いたくなってしまう。
「宰相は息子に引き継がせて、私は領地を拝命し、事実上隠居することにした。
湖畔の傍に住まいも用意してある。お前の好みもあるだろうから内装はまだだがな。
宰相引退の下準備はあらかた済ませてあるが、これから周りへの周知に1年、引継ぎ業務に3か月ほどかけて、移ることにしている。人事はほぼ変えないのでそれほど混乱も起きぬだろう。
ただし、お前には、補佐官を辞めて、俺に付いてきてもらいたい」
いずれは引き継がれるとは思っていたが、この時期に?
まだご健勝であらせられるのに、引退とは。
引継ぎに問題がないのは理解できる。ご子息は同じ補佐官として働いているため、非常に優秀で視野も広くお父上の柔軟な思考も受け継がれているため、身分によらず、実力を見て人事を行うこともできるお方だ。カリスマ性は比べれば劣るかもしれないが、この方が圧倒的すぎるため比べても仕方がないというところもある。
「今のお話ですと、女中としてでも雇いなおしていただければ。婚姻でなくとも良いのでは?」
ますますお顔が苦々しいものになるが、私もここまでくると意味が分からなくなってくる。
本当に、結婚など、今更の話なのだ。
なぜ、今頃になってそのような気になったのか、わからない。
ちなみに私は未だこの方の腕に柔らかく拘束されたままだ。
「なんだ。
お前は結婚したくないのか?」
少々、責めるような拗ねたような物言いをされる。あなた、私とは親子ほど年の差があったはずですが、なんですか。
惚れた弱みで、くらくらしてしまうが、ぐっと足を踏ん張り、
「そのような時期はとうに過ぎました」
と、答える。
とたんに、これまで苦々しいお顔をされていたのが眉を下げて悲しそうなお顔になる。
・・・ズルイ。その顔にも弱いのに。
つい、私も口を尖らせてしまいそうになる。
いけない。いけない。
この方と私は王族と一臣下。上司と部下。たとえ愛し合っていても。
ここは執務室。
・・・ん?・・・執務室・・・
今更ながらにはっとして、離れようとすると、これまで柔らかく拘束していた腕が強くなる。
「えっ、っ ちょっ、ちょっと、申し訳ありません。
このような、場所で!!!」
誰かに見られたら、何を言われるか 考えるだけでも恐ろしい。
「見られてもいい。もう隠す必要もない。
それより、俺のプロポーズの返事の方が大事だ」
額をこつんとくっつけられる。
「は、え、・・・な・・・」
言葉にならない声を発しつつ、混乱して目眩がしてきた。
「時間はかかったが反対勢力は封じた。
国は安定している。
補佐官に登用したことで、お前の実力も知らしめた。
やっかみは多少あるだろうが、心配しなくていい。
護る」
目眩が酷くなり、足に力も入らない。
フラフラし始めた私を抱き上げ、そのままソファーに座った。
・・・私を膝に乗せて。
くるくると目を回している私をクックと笑いながら見つめ、
「何かあっても俺が護る。そのための準備ができたのだ。
心配するな。
それで俺の負担が増すわけでもない。大丈夫だ。
お前の理想の穏やかで静かな生活を、二人でしよう」
触れるだけの口付けをされる。
「お前はただ ”はい” と頷くだけでいい」
熱い吐息がかかる。
ああ、ああ、クラクラする。頷いてしまいたい。
「これでもだめか?
強情だな。
お前は俺と離れて生きていけるのか?
どうなんだ?」
「無理、です。
離れたら、・・・生きていけません・・・」
それは、愛しているからとかそれ以外にも魔力供給という問題もある。
私は生まれつき魔力が枯渇しやすい病に侵されていた。それでも成長期までは魔力量自体も増加するため、なんとか生きていけた。ただ、成長するにつれ、消費される魔力も増えていってしまったため、つねに魔力の飢えと戦い、倒れやすく、日中活動できる時間がとても短かった。それをなんとかしてくれたのが、偶然に偶然が重なって、当時王立学園に臨時講師に招かれた第一王子、現在の宰相閣下だ。オソロシク相性のいい魔力の波長に気が付かれた閣下のご厚意で、私は息を吹き返したようなものだった。この方からの魔力供給によって私は人並みの生活が出来るようになり、学園を卒業と同時に補佐官見習いとして登用された。私にとって閣下は命の恩人であり、尊敬すべきお方で、親子ほど年も離れていることもあって恋愛感情などなかった。それがなんでこんなことになったのか今でも不思議でならないが、愛しているのは確かだ。閣下からの愛も疑うべくもない。魔力供給はお互いの真実を詳らかにするのだ。魂を明け渡すようなものなのだ。生半可なことではできない。それを閣下は苦も無くやってのけてしまわれた。感謝しかない。
閣下はすでに一度ご結婚されていて、妃殿下との間に5人もの子宝にも恵まれていらっしゃった。私と出会ったころにはすでに妃殿下は儚くなられてしまっていたが。
その後も新たな婚姻を結ぶこともせず、今に至る。
私の両親は、特に権力欲もなくほやほやとしていて、私が病弱だったこともあり、ある意味貴族の義務のような結婚を強要することもなく、世間から行き遅れと後ろ指刺されていても、責めることもなく放置してくれていた。
弟君が国王になっても、兄君である閣下は第一王位継承権を持ったまま、さらには圧倒的なカリスマ性、そのような方によくわからない身分もそれほどでもない女が傍にいるというのは まあ、色々言われるし、なんなら色々される。暗殺騒ぎもあった。この方の隣に見合うどころか、足手まとい、おんぶにだっこなのは重々承知だ。でも、手を離せない。世間のロマンス小説には ”真実の愛” なる表現が流行しているそうだけれど、これをそんな言葉で飾ってしまったらとたんに安っぽいものに感じてしまうから、私はこれを真実の愛などと名前を付けたくはない。
閣下の身近な方々は、閣下が私を可愛がっても、子供か孫を可愛がるようなものとして見ているだろう。私自身、そう錯覚してしまうことがある。イロイロとオトナの関係になってもなお、そう感じることがあるのだ。恐れ多いことだか。
そんなこんなで、私の頭の中には閣下との結婚のケの字も出てこないのだ。
つらつらと思考の海に沈んていると、また口付けをされた。
そっと、繊細なガラス細工に触れるように、頬を撫でられる。
「愛している」
こくり、と、頷く。
閣下の目尻にシワを見て、随分と年月が経ったことを思う。
私も年を取った。出会ってから20年以上。
この様な関係になってから10年程経つ。花の盛りはとうに過ぎてしまった。大した花でもなかったが、ふと寂しい気持ちになった。
ああ、なぜ、この方は私に手を差し伸べて下さったのだろうか。愛を疑うことはないが、これは本当に男女間の愛なのだろうかと疑うことはある。
知らず、涙が落ちる。
優しく微笑まれた閣下が、そっと拭ってくださってから泣いていることに気が付いた。
「私も、お慕いしております」
閣下の笑みが深くなる。
三度、口付けをされる。
「それを返事としよう。
よいな」
反論など初めから出来ないような語気で、力強く言われる。
結果として、私は普通の淑女のようにただ涙を流して「はい」と頷いたのだった。
――――――― 一年後、湖畔には穏やかに微笑みあう夫婦がみられることになる。