霊4・幽霊は物忘れ?
冷たく澄んだ空気の中、月は明るく赤みを帯びている。夏の日中の猛暑はどこかへと消え、ひんやりとしたそよ風が木々を揺らす。
ザザザァー。
空気が微かに湿っている。風が冷たいのはそのせいか。しかし、この辺りには水辺などどこにもない。日中は雨など一滴も落ちてきていない。それでも寒い。寒い……。きっとそれは俺がいる場所に関係しているのかもしれない。そう思うのは、いつものことだ。
今日も俺のお隣さんは賑やかだ。墓地のあちこちに微かな灯火がふわふわ浮いている。幽霊も暇なのだろう、読書をしたり、世間話をしたり、お供え物を分け合ったり、将棋をしたり、飲み合ったり……。
いったいどこからそのような物を持ってくるかわからないが、幽霊になっても暇なのは変わらないのだな。ただ、毎晩毎晩こんな所を徘徊していると、いつか俺も彼らの仲間に引きずり込まれそうだ。
「兄ちゃんも一杯どうだい?」なんて声を掛けられ、油断して幽霊にそのままあの世へ引き込まれるとか……。
――考えないようにしよう。今は。
「すみません、英子さん。その……手紙を見つけることができなくて」
俺は英子さんの墓の前で今日見たことをそのまま述べた。隠すこともできたが、それではなんの解決にもならないと思ったからだ。英子さんは自分の家がなくなっていることに頭を項垂れしばらく口を閉ざしていたが、自分の立場を改めて理解したのかにっこりと微笑んでくれた。
「いいんです。わかってたんです、薄々。死んでからここに縛られ外の世界で何が起きているかわからなくて、正直辛かったんです。それに」
「それに?」
「記憶がだんだん薄れていくんです。私が死んだのはいつか、何年前になるのか、そんな大事なことすら忘れてきているんです。そして、いずれ英二のことも……」
「英子さん」
英子さんは墓に彫られた自分の名前を見つめる。しかし、その透き通った瞳はもっと遠くの、到底俺の手が届かない世界を見ている気がした。
記憶が薄れる。幽霊としてこの世に留まりすぎたために起こる。その限界が来ると、幽霊は自分が誰であるか忘れ、そして――。
英子さんにもその兆候が見られる。が、普通そこまで至るには何十、百年の長い月日を要するはずだが、英子さんの死去した年をじぃに調べてもらったが、死後四年と言った所だ。
となると、英子さんの症状は英二さんを思う気持ちからきているのかもしれない。稀に深い後悔や強い思いを抱いたまま亡くなると、英子さんのように早くに記憶の喪失が始まると言うが。
いや、それだけではないかもしれない。英子さんは英二さんを思う気持ち以上に、何か後悔していることがあるのではないか? だから手紙という形で息子にそのことを伝えようとしているのか?
ええい! 考えても仕方ない。ここは無理を言ってでも俺の提案を薦めるべきか。
意を決すると、墓を見つめている英子さんの背中にそっと、なるべく静かに声を掛けた。まるで他の幽霊に聞かれるのがまずいように。
「英子さん、俺が立ち入るべき問題じゃあないかもしれませんが……一つだけ英二さんに手紙を渡す方法があります」
その言葉に英子さんは肩越しにこっちを見る。半信半疑といった表情だが、俺の視線をまっすぐ捕らえている。
「確かに英子さんが書いた手紙はもうどこにもないかもしれません。でも、それなら――これから新しい手紙を書けばいいじゃあないですか」
「けど、私はこの様だし、手紙なんて――」
「いえ、書けますよ。俺が」
英子さんの瞳をじっと見つめ、力強く告げた。
「英子さんの変わりに手紙を書きます」
※
「と、言ったものの、どうやって英二さんに渡せばいいんだ?」
次の日、朝から手元にある手紙をどうすべきか、頭を悩ませていた。教室では他愛の無い日常が繰り返されている。朝のホームルームで担当の清水明子がぐだぐだ説教をたれている。誰か問題でも犯したのか、はたまた煩くしていてそれを叱っただけか。
どうでもいいが、今はこの英子さんの手紙をスムーズに英二さんに渡す方法を考えなくては。机に広げた手紙を見下ろす。そこにはとても綺麗とは呼べない俺の字が長々と並んでいる。そう、昨夜英子さんに提案した策というのがこれだ。
英子さんが手紙の内容を読み上げ、それを俺が書き上げる。これで実質英子さんの手紙が完成した訳だが、大きな問題がある。それは――。
「何これ〜、あんた字汚すぎじゃん」
隣の席の女子が勝手に俺の方へ身を乗り出し、手紙を見ていた。それに気づくと同時に、素早く手紙を折りたたり、ズボンのポケットに押し込む。
「何さ何さ、そんな急いで隠して、まさか私宛のラブレターって訳?」
「お前なぁ」
視界を飛び交う蝿を追い払うように、その女子――神田由紀の手を振り払う。
こいつには毎回毎回手を焼かされる。何かとつけて絡んでくる。俺の不可解な行動に素早く目をつけ、執拗に付回す。由紀は俺がいつも何か隠していると察しているようで、その答えを見つけようと俺に目をつけているのだ。
「あれれ! やっぱ図星だった? それならそうとその手紙見せてよ」
「無理矢理手紙を見る口実を作るな、由紀」
その言葉でようやく折れたか、由紀はチェッと言って次の授業の準備に取り掛かる。その間もまだぐちぐちと文句を垂れている。
「でも、透が手紙なんてね〜。今の時代メールだよ、メール。手紙なんて、よほど大事な人に送るのかな?」
「お前に関係ないし、話すこともない。以上」
「いいじゃん少しぐらい」
「少しも何もない」
いたちごっこに疲れてきた所で、担当の清水から声が飛んできた。
「そこ静かに、これから転校生を紹介しますから」
転校生?
どうやらさっき清水が説教垂れていたのは、いつになく賑やかなこのクラスを静めるためのものだったか。それにしてもこの時期に転校生なんて珍しいな。
そんなことを考えていると、前のドアがゆっくりと開き、一人の女子が入ってきた。どんな子かとクラスの皆身を乗り出しているのがわかる。
入ってきた子は一見大人しそうなごく普通な子だった。ショートヘアーにクリッとした瞳。白い顔に引き締まったスタイル、少し背が低めで、うちの学校の制服を綺麗に着こなしている。これは恐らく可愛い類に入っているだろう。
ふと、隣の由紀を見る。由紀はその転校生と正反対と言えるかもしれない。ロングヘアーにきつ目の顔立ち。スタイルに関しては細身だが、背も少し高く制服をだらしなく着ている。赤いスカートが短いのはクラスの女子大半に言えることだが、上着の青いリボンは若干下がっていてこの上なく見た目が悪い。
「何よ、あたしの顔になんかついてんの?」
「……」
何か言うとまた言い争いになりそうだ。転校生に視線を戻すと、ふと彼女がこっちを見て微笑んだ……気がした。ああいう感じの子が隣の席なら、もっと静かに学校生活を送れそうだ。
彼女はチョークを持つと黒板に向き、名前を書いていった。俺の字とは比べ物にならないぐらい綺麗な、整った字だった。
名前を書き終わると、彼女は再びにっこり微笑み、自己紹介をした。
「はじめまして、三崎杏奈です。これからよろしくお願いします」
三崎杏奈、それが彼女の名前か。それだけ確認すると、俺は頬杖をついて窓の方へ顔を向けた。
そして、再び英二さんに手紙を渡す方法を考え出した。
※
「それで英二さんはどこにいるんだ? その前に」
俺は八木橋英子の一人息子――八木橋英二を探しに夜の街を徘徊していた。
「英二さんは生きているのか?」
「もちろん、生きてるとも」
じぃが人に紛れながら俺の後をついてくる。
久しぶりだ。
周囲を見回すと夜の街が眼前に広がっていた。俺がいるのは子供が足を踏み入れるにはまだ早い世界――歌舞伎町。
通りに沿って数え切れないほどの店が群れをなしている。右も左も店、店、店――。人で溢れ、あちこちからやかましい音が飛び交いとても美しいとは言えないシンフォニーをかんなでる。夜の闇はそこにはなく、あるのは明るすぎる街頭と、人々の欲望の声。闇に慣れすぎた俺にはいささか眩しすぎる世界だ。
俺は人込みを避けるように通りの端を歩き、じぃが案内する場所へ向かう。普通案内する人が前を歩き先導するものだが、じぃは何故か俺の後ろを歩く。じぃもまたここが苦手のようだ。
「兄ちゃん、どうだいここ寄ってかないかい?」
端を歩いていると中年の男に声を掛けられる。その男はダークスーツにいかつい顔をした風貌だ。端を歩くと人が少ないが、変わりに呼び込みに声を掛けられやすい。このように。
その声を無視して先を急ぐ。俺のような輩はとっととここから退散した方がよさそうだ。もしこんな所で問題を起こし――。
※
「昨夜、うちの生徒が歌舞伎町で問題を起こし、停学処分とされました。皆もくれぐれも分をわきまえた行動をするように!」
と、清水が顔を強張らせて、声を凄める。
その言葉にクラス中に笑い声が響き、あちこちから声援とも捉えられない声が上がる。
「透ついにやっちまったかぁ」
「大人の階段一気にあがっちまったなぁ、透」
「透君がそんな人だったなんて」
「見損なったぞ、透」
「信じらんない、おとなしそうな顔してやることやるね」
「へんたーい」
「へんたーい」
「へんたーい」
……。
※
――いや、おかしいだろ、なんで歌舞伎来て変態呼ばれされないといけないんだ。ってか、こんな妄想してる場合じゃあないだろ。今はやるべきことがあってここに来ているんだ。
「時に、お主気は確かか?」
じぃが俺の独り言を聞いていたようだ。俺は首を左右に振って気を取り直した。
「それで、じぃ、道はこっちであってるのか?」
「ほれ、お主がよからぬことを考えている内に着いたぞい。あれがそうじゃあ。いや、最近は目が悪くなってか、なんて書いてあるかわからんのぅ」
じぃが顎で指した方を見る。そこには――。
ザ・ブルースカイと英語で書かれた看板を背負った派手な店が陣取っていた。
「じぃ、それは目が悪いんじゃなくて、英語が読めないだけだ」
その店はどうやらホストクラブというもののようだ。英二はやはり面倒な奴だった。
というか、もうここから消えていなくなりたいと思った。今回のバイトはハードが高すぎないか? それでも、やらないといけないのか? 無理だとわかっていても。
ってか、英子さん俺に無理難題押し付けすぎじゃあないか。下手すると生きて帰れないかも。「てめぇふざけんじゃねー! こんな手紙読ませるためにこの俺様を呼んだのか、ガキが」なんて言われて、たこ殴り?
いや、ありえない話ではないかもしれない。俺みたいな赤の他人が踏み込んでいいはずがない。これはおとなしくお家に帰りなさいという警告に違いない。
そもそも幽給の壷はもはやどこにあるかもわからないのだし、今回はさすがに――。
店を遠めに、踵を返す。英子さんには悪いが、さすがに相手も相手だ。今回は――。店を背に歩き出した時、ふと、英子さんの言葉が蘇る。
『記憶がだんだん薄れていくんです。私が死んだのはいつか、何年前になるのか、そんな大事なことすら忘れてきているんです。そして、いずれ英二のことも……』
忘れていく。息子の英二さんのことも。だとしたら、俺は――。
俺はその場に立ち尽くし、しばらく答えを見つけるに時間がかかった。