霊3・幽霊は何も知らない?
「えーこうして夏目漱石はこの作品ぼっちゃんを通して――」
現代文の尾崎がだらだらと夏目漱石について語っている。教室の一面を覆う緑色の黒板に長々と文字を記していく。しかし、目がいくのは夏目漱石の偉大さではなく、教師の頭である。つるつるの禿げ頭に日差しが反射して眩しい。それは大げさかもしれないが、黒板より目がいくのは変えることのできない事実だ。
「はい、誰かここの文が指しているのがどこかわかる人?」
掠れた声で質問を投げかけている。それをいつものごとく廊下側の一番の席に座るきちっと学ランを着た生徒が手を挙げる。そんな光景に飽き飽きしつつ、すぐ左手に見える窓辺に目を向ける。
「はい、神田君」
今日は雲一つない青空がどこまでも広がっている。昨夜の曇り具合からは考えられないぐらい、空は眩しく輝いている。きっと風が雲をどこかへ運んでいってしまったのだろう。はたまた神様という存在がいて、なんでも吸い込むことのできる掃除機で雲を一掃してしまったのだろう。
まあ後者はないにしろ……。頬杖をつき、軽く息を吐く。こうして教室にいると、自分が超がつく貧乏人だということすら忘れてしまう。あまりにものどか過ぎる。
神田君がいつものように尾崎の質問に答え、その間他の生徒はノートを取るなり、机の下で携帯をいじるなり、本を読むなり、至って静かな教室だ。
外からは小鳥が囀る声が聞こえ、昼前の強い日差しを遮るための薄茶色のカーテンは風に揺らされている。
ああ、平和だ。そう普通の奴にとっては。
考え空を見上げながら考え事をしていると、背中をツンツン突かれた。誰かが俺の背中を突いているようだ。だが、残念なことに俺の席は窓側の一番後ろに当たる。それが生徒だとしたらおかしい話だ。じゃあ誰が俺の背中を突いているかって?
こういう時は教師って展開が多いんだろう。授業中ぼうとしている生徒の背後の静かに忍び寄り、注意する。しかしだ、その教師は教壇に立って神田君を褒めているではないか。となると、その可能性はなくなったという訳だ。さてどうしたものか。
またツンツンと背中を突かれる。どうやらこの教室には教師と生徒以外にも何かがいるようだ。それが幽霊と呼ばれるものであるとしたら、厄介だ。恐らくそうであるのだろうが、ここで振り向いてしまったら、面倒なことになる。
一応俺は普通の学生であるとクラスの皆に思われている。ただ、超貧乏ってことは隠している。そのような汚点は発覚すれば、すぐに俺の評価を下げ、クラスとのコミュニケーション能力を著しく下げてしまうだろう。
無駄なことはしない。これ大事。だから俺は振り向かないことにした。変わりに机に突っ伏し、寝たふりをしてやり過ごすことにした。しばらく背中を突く感触は消えなかったが、俺が反応しないとわかるとツンツンは消えた。
顔を上げると、もう授業が終わって昼休みに入っていた。どうやら寝たふりが寝込んでしまったようだ。首を回しコキコキと間接を鳴らす。ふと空を見上げると、はるか頭上を飛行機が高音のうなり声を上げ、視界から消えていく所だった。そんなありふれた光景を目にしつつ、こうしていつもやり過ごせれればいいと思うが、やはり世の中はそう甘くない。
これからやらなければならないことを思うと、気が重くなりそうだ。しかし、これも生きていくため、食べていくためには致し方ないことだ。そう思いながら空腹を満たすため、昼飯となる屋上の新鮮な空気を吸いに席を立った。
※
夕暮れ頃、生徒達は学校を出て各家路に着く。しかし、俺は違う。やらなければならないことがある。頭上で烏が鳴く中、一人寂しく歩道を歩く。普通の学生はこれから塾に行ったり、友達とどこかへ遊びに行くのだろう。
現に今俺の隣を過ぎていった三人組の赤いスカートに紺色のブレザーを着た女子達もキャハキャハ笑い声を上げながらどこへ歩いていく。俺もあんなふうに友達とつるめたらな……。
肩越しから去っていく女子達を見やる。
「まあ、無理な話か。さて、八木橋英子さんの家はと……」
英子さんから教えてもらった家を地図を見ながら探していく。どうもこの作業ばかりは骨が折れる。
英子さんに案内してもらえればいいのだが、墓地にいる霊はほとんどその場から離れることができない。
幽霊には自縛霊というその土地に縛られているのと、浮遊霊というどこにでも移動できる種類がある。英子さんは前者――自縛霊となる。そのため、何か英二さんに関する情報がほしい場合、毎回墓地へ足を運ばなければならない。が、それを省略してくれるのが――。
人気がなくなると、後ろからコツコツと杖を突く音が聞こえてきた。振り向くとじぃがいつものようにこんばんわをしていた。
「じぃ、いつからついてきてた?」
「正確に言うと、昼前の授業の頃からですなぁ。咲夜さんも人が悪い。せっかく授業参観として行ったというのに」
そういうことか。あのツンツンの正体はこいつか。ちなみに――。
「俺の背中をなんで突いた?」
聞くとやはりそうか。じぃは杖を掲げてにっこりと笑う。いったいこいつは何人の背中をなんだと思っている。杖で突くなんて。
「じぃ、怒ってもいい、かな?」
「それは遠慮してくれんかのう、年寄りを大事せんと罰が当たるぞい」
「……もう、当たってるよ」
じぃを置いて先に進む。後ろからじぃがついてくるのが杖の音でわかる。このように自由に動けるのは、じぃが浮遊霊であるからだ。そのためこうしてどこにでも行くことができる。
言い方を変えれば俺にとり憑いているとも言える。それが、幽給バイトの仲介人として選ばれている理由である。じぃのように自由に動ける霊がいると、バイト依頼人とのスムーズな情報交換が可能になるのだ。
「それで……用件はなんだ?」
地図を見下ろしながらじぃに話し掛ける。左手前方にに大きな公園が見えてきた。英子さんの言う通りだとこの辺りのはずだ。細い路地を抜け、広い道に出る。右手の道路を大型トラックが過ぎて行く。
じぃは追いつくわけでもなく、歩調を変えず話し出した。
「八木橋英子さんの息子さん、英二さんの行方がわかったぞい。英二さんは今この付近におる」
「どこ? 何してる人?」
「……」
じぃから返事が返ってこない。
ああそうか、そういうことか。こいつは参った。俺はすぐにじぃの沈黙が何を意味するか理解した。
「面倒な奴ってことか。参ったなぁ」
面倒な奴。つまり、あまり世間的に好感が持てる人物ではないということだ。職につかないでどっかでふて腐れているか、やばい職についている人、まあ挙げたらきりがない。要するに近づきがたい人ってことだ。そうなると、ますますやりづらいなぁ。
「それより、英子さんからの給料だけど、家のどこにあるって?」
「家の庭に埋めたそうじゃ。詳しくは仕事が終わった後、英子さんに聞いてみるんじゃな」
「庭かぁ」
これも厄介だ。もし無事このバイトを終えたとしても、英子さんからの給料――高価な壷? をどうやって手に入れるか。他人の家の庭を掘り起こすにも、穏便に済ませるには難しいだろうな。
だとしたら、英二さんが家にいない時を狙って急いで掘り起こすしかないか。まあこれもいつものことだ。ただ、家にいるのが英二さんだけとは限らない。それが厄介な問題の一つでもある。
核家族というものはたいてい常に一人は家にいるものだ。そうなると壷を手に入れるのは至難の業だ。好ましいのは一人暮らしだろう。家を空ける時間が多い。その間に幽給を手に入れればいい。けど……。
よく考えると、自分がやっていることは泥棒と変わりないのではないか。確かに死んだといえ本人に確認をとっているといえ、他から見ればれっきとした泥棒に見えるに違いない。だからといって、この仕事を止めるわけにもいかない。やめれば俺も生きていけないのだから。
幽給バイトをしている時は、あまりそのことについて考えないようにしている。俺は幽霊達に頼まれ、その望みを叶えてやる代わりにお礼を貰う。そう考えている。そうしないとこの仕事はやっていけない。
「この辺じゃあないかのう、咲夜さん?」
じぃに呼び止められふと我に帰る。気づくと公園を過ぎ、隣の空き地の目の前まで着ていた。地図を見る。赤い丸が英子さんの家だ。それを見る限りこの辺りで間違いなさそうだが。
「どこにもそれらしき家なんてないじゃん」
見逃しているのでないかと、周囲の家の門を見て名前を確認していく。しかし、お目当ての名前は見つからない。どういうことだ? 英子さんが道を間違えたのか?
「咲夜さん、ちょいわしにも見せてくれんかい」
じぃがそう言いながら俺の隣に立ち、地図を見下ろす。顰めた面をしながら地図と格闘すること数分。ようやく顔を上げると、じぃはある方向を杖で指した。
「公園の隣なら……そこが英子さんの家じゃあないかのう」
じぃにつられ、杖が指す方向を見る。
そこには家などなかった。あるのは空き地という看板と、硬い地面だけだった。じぃの言う通り地図上では公園の隣に赤い丸はあった。ということは――。
「この……空き地が英子さんの家?」
土と草が見える土地に唖然としつつ、どこかほっとしている自分がいた。今回はどうやら幽給となる壷は簡単に手に入りそうだ。人どころか家がないなら、あとは土を掘るだけだ。だけど、家がないということは――。
「これじゃあ、庭がどこかわからんのう、ひひひひっ」
じぃの言う通りだった。いくら英子さんと言え、これではどこに壷を埋めたかわからないだろう。ましてや自縛霊であるため、ここに来ることができないのなら。
この時から、俺は言い知れぬ疲労感と困惑に襲われつつあった。