クソ食らえ人類
うんこ食べてくださいあなた様。
戦争は悪である。大抵の人がそうだと言うだろう。では、なぜ悪なのかについて少し考えてみる。
で、それならまず先に、悪とは何かという疑問について何らかの答えを出しておかないといけない。
悪とは何か。この手の問いには答えが人の数だけあると考えているので、あくまでも私にとっての悪とは何かであるが。まぁ、面白いものでもなんともなく、辞書通り「正しくないこと」が悪である。さらに、正しさとは、つまり正義とは何かなのだが、ずるをしないことである。
言い換え論であるが、こうやって最後に行き着いたところが答えであるだろう。たぶん。
ずるとは何か。自己の利益のために、何かを疎かにすることである。要領よく立ち回るとも言う。
捨て猫の段ボールを見て見ぬふりをする事が悪である。または、人のためでない嘘をつくことが悪である。
戦争が悪なのか、という話に戻すが、この場合の「自分」とは誰であろう。何を疎かにしているのかはわかる。互いの国民の命である。では、自分は何かというと、それは国である。国とは、国民の集合体である。
国民を細胞に見立てて、国を人間に見立てたとき、より良い肉体のために筋トレで細胞を殺すことは、それは悪であろうか。
もちろん悪の定義が人それぞれであるので……なんで人それぞれなのかというと、私の定義では他人を犠牲にして自分の利益を求めることは悪だが、所詮それは日本人である私からしたらであって。たとえば、雪山で遭難中の二人には悪人への道しかない。何故なら、生き延びるための一切れをパンを自分の手に取ることはパートナーの生命を疎かにし、逆にパンをパートナーの手に取らすことは、そのパートナーを悪人にして自分だけは善人であろうとするという事で(重荷を背負わすのは悪になる)、二人が二人とも善人であろうとすると、最後には死ぬしかないが、その場合ですら「自分の生命」を疎かにしたのではないかという(パンという手段があったにも関わらず)、どうしようもない状態になる。別のたとえでは、人から盗むことでしか生きることが出来ない戦地の子どもの行為は悪かと言われると、それはもちろん私には悪ではあるが、彼らにとっては善である。別の話で書いたが、ロボットに人権は現在ないが、数百年後のロボットに人権がある時代の未来人が現代を見て、ロボットに人権を与えないなんて悪だと言われても、知ったことではない。これは、過去未来において善悪が変動するということだ。逆に、過去未来全時空においての善悪を全て考慮にいれようとすると、今度は全ての事象が善と悪の両面の性質を持つことになるので(植物は生き物だから食べることは悪とするバイアスを持つ人間と、植物は天の恵みで枯らしてしまうのは悪だから食べてしまわなければならないというバイアスを持つ人間は、時空の果てにどちらも存在する)それはもう混沌とした何かになる。私がわかるのは私という人間の善悪だけである。考えることその事自体に価値はあるが、だからといって、いくら考えたところで死後の世界の答えはでない。大真面目な顔で「人生の生きる価値とは、他人を無償で愛し愛が帰って来た瞬間に生まれ、それこそが幸福足るもので、独りよがりな人間には真の幸福は訪れない」と出会い頭に仰った先生がいたが、それならばひたすら土と向き合った陶芸家とかはどうなるのだとかいう話になる。で、年がら年中土をこね続ける人間の善悪を、私がわかるかと言われれば、なったことがないからわからないとしか言いようがなく、それは、死んだことがないから死が何かわからない(どのようなものか考えることはできるし価値はあるが)のと本質的に同じである。全ての要素を取っ払って人間とはで一括りにしてもいいが、これも同じく、人間を知るには全時空の全ての人間を経験しなければならないので、もうむちゃくちゃである。
当たり前のことだが、アリストテレスと私は何から何まで違うので、同じ答えが出るわけがない。人間ではあるが、別の生き物である。ブルドッグとニホンオオカミが同じ犬だからといって同じ価値観であるわけがあるまい。
話が脇道を全力疾走していった……戦争が悪なのかというところに話を戻すが(汗)
ようは、自国民という筋細胞を痛め付けたところで、国は悪ではないのではないか、と言うこと。だが、悪かどうかを決めるのは細胞なのだ。言い換えると、ある細胞が体という集合体を存続させるために他の細胞を犠牲にする、ということ。この場合、ある細胞の行為は私基準で悪である。(戦時中の兵士が悪であるかどうかではない。兵士が敵国の兵士を撃ち殺すことは私的悪であるが、兵士が悪かどうかを決めるのは兵士本人である。そもそも、他人を評価して悪と下すのは、それはおかしな話で、結局私はその他人を経験していないから、悪かどうかをわからない。面白いことに、悪をする人間が悪人とは限らない。が、気をつけなければこの基本原理を忘れ、私は一つの行為で他人を悪だと判断する悪人に成り下がる。何故かというと、判断を急ぎ、他の要素を疎かにした、それはずるいことだからである)
話を戻す。戦争は悪である。悪を犯すのは国ではなく国民である。強制されても抵抗の手段は残されていて、死ねば良い。死ぬことは悪ではあるが、疎かにするものが生命一つですむから(実際は家族だとかで一つ以上になるが、それは敵兵を殺したときに疎かにするものの計算が一つ以上になるだけの話である)そういう意味でその場で最善である。雪山の話での自殺が逃げ道にならないのとは、条件が違うのだ。
2か月前に書いて、今読んで、後書く。
性善説とか信じていないし知らないしどうでも良い。
オウムのサリン事件で、実行犯らがやったことは(私目線)悪だけど、実行犯らからしたら悪ではない……かもしれない。結局、俺は彼らじゃないからわからない。本人たちが悪だと思ってやったのなら悪だけど、それしか方法がなかったのなら(何をしたかったか知らないが)悪じゃないのだろう。
もしかしたら彼らは雪山にいたのかもしれない。
昔、小学生くらいのころ、朝起きたら他人になっていたことが何故ないのか考えていた。結論として、俺が俺として朝起きたとき、昨日まで別の人間だったとしても俺には残らないのだろうと考えた。なので、実は他人になっていたのかもしれないが、それは俺にはわからない。
どこまで行っても俺は俺でしかない。
ならば俺の善悪は俺の価値観で決めるしかない。でも(だから)、他の人の善悪を語ることは出来ない。
ようは、万引きは悪いことだが事情があったのかもしれない。コンビニからしたら知ったことではないが、万引きをしたその人を知らないで(知りようはないのだけど)俺がそいつを悪だというのは、俺が悪だろ。同じこと繰り返し言ってるだけだな、これ。
結局2か月前と同じく何を言っているか自分でもわからん。