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(……軽く打って終わらせるか)

 勝ち負けが誰に対しても影響を与えないのであれば、背負うものが無いのであれば、問題はない。そして重要なこととして、自分の足で戻って来たわけではないと自分に言い聞かせて、サーブのポジションについた少年に対してラケットを構えた。正直、伊月はこの暑い中走り回る気はない。汗だくになどなりたくはない。適当にして、適当に切り上げて、コーチ就任には値しない実力であると少年に見せつけて、落胆させるのもいい。加賀には申し訳ないと僅かながら思いつつも、しかし、一度ラケットを置いた人間がもう一度拾い上げても、かつての実力をもう一度体現できることなどできやしないのだ。五年近く戦いから逃げてきた人間にできることなど、今更何もない――そう、伊月は思っていた。

「1セットマッチ 入屋 トゥ サーブ プレイ」

 むつみは審判台に座り、コールをし始める。試合の緊張感は皆無。しかし、入屋と呼ばれた少年が綺麗かつ鋭いサーブを打ち込んできた瞬間、全身の筋肉が無意識に伊月の身体を動かした。瞬間的にステップを踏み、利き手とは逆のほうへ飛んできたサーブに対し、伊月は素早く回り込んで強烈な利き腕側の強打(フォアハンド)でコートの隅、ギリギリを狙って叩き込んだ。

「……え?」

 何が起こったのかわからない、狐につままれてしまったかのような様子で目をぱちくりさせていたのは入屋だけでなく、むつみもまた同じだった。しかし、一番驚いていたのは打った本人だ。五年近くコートを離れ、ラケットすら握らずにいた自分が、かつての動きをしているのだから、当然ながら驚きである。

(……身体が覚えているんだ)

 驚きを隠せない入屋が次に打ってきたサーブはまるで警戒するかのように大きく弧を描くように跳ねるスピンサーブ。少しだけコート後ろまで下がらされたが、伊月は高く跳ねたボールを的確に、鋭く、抉るように、相手が最も嫌がる真正面に打ち返した。慌てて体制を崩しながら返球した入屋に、容赦なく前に出た伊月は浮いたボールをダイレクトにコートへ叩き込んだ。

(忘れられないぐらいに刻み込んだ動きは消えることはないんだな)

 かつての自分に比べれば腕は落ちているし、体力も衰え、反応も鈍ってもいる。それでも、動きも打ち方も攻め方も、プレーすべてがかつてと同等のままに、まるで止まっていた時が動き出したかのような感覚が打つたびに体中に響いて届いてくる。身体が熱くなっていき、汗も滝のように流れ落ちてくる。あれだけ汗は掻きたくないと思っていたにも関わらず、サーブを打つ腕は全力で振り抜き、狙った場所へ打ち込んで入屋からノータッチエースを量産していく。いつの間にかゲームカウントは5―0、ポイントも40―0で伊月のマッチポイント。

 入屋が悔しそうに顔を歪ませているのがわかるが、勝負の世界において『相手に手を抜かれること』は屈辱的である。最初は適当に終わらせてしまおうと考えていたが、自分の身体が無意識に動いてしまったのだ。実力もあり、才能もある彼に、それこそ毒でもある侮辱はするべきではない。だからこそ、伊月は入屋のサーブに対して、この試合の一球目と同じように、強烈な一打で叩き込んだ。

 砂埃が舞い、ボールが衝突して激しくフェンス全体が揺れる。唖然としているむつみが審判としての仕事を忘れていたが、公式戦ではないのだから、と伊月はラケットを握る手を緩めた。

「はあ……疲れた」

 5セットマッチのフルセットであれば体力の問題で負けていただろうと冷静に分析し、大量に掻いた汗を腕で拭い、握手を交わすためにネット際まで歩いて行く。すると、さっきまで悔しそうにしていた入屋が、一転して驚喜に満ちた笑顔でネット際まで駆け寄ってきた。ネットから身を乗り出し、入屋は言う。

「コーチ強すぎ! マジで何者?」

「何者って……酒屋の従業員だけど」

「いや、そういうことじゃなくてさ! あのエグいリターンとか、エグいサーブとか! 加賀コーチのリターンとサーブに比べると天と地の差だよ!」

「こら! 私とその人を一緒の枠に入れるな!」むつみが急いで審判台から降りてくる。「この人は高校時代の大会で今では国内ランキング上位の新山プロと張り合ったことのある人なのよ? そんじょぞこらのプレーヤーじゃないに決まっているじゃない。ほら、ちゃんと握手して」

 言われて握手を伊月と交わした入屋は興奮冷め止まない様子で伊月に話しかけてくる。

「すげえ人なんだね! 俺、てっきり弱っちい人だと思っていたから度肝抜かれちゃったよ。驚いて弱腰になったから自慢のサーブがボロボロになっちった。プロと対戦しているみたいで楽しかった!」

 その場でぴょんぴょんと飛び跳ねる入屋が少し鬱陶しくなった伊月は頭を抑え込んで強引に動きを止める。しかし、それにしても、と伊月は今一度コートを見渡す。久しぶりに戻って来たコート、ずっと戻ってくることはないと思っていた場所に立っている不思議な感覚が全身を包み込む。やはり、自分はテニスが好きなんだなと実感しつつも、それでも拭えない過去には抗うことができなかった。脳裏に過った孤独な試合、ネットを越えることができなかった最後の一球、転げ落ちて失われた熱意が、爽快感を一瞬にして台無しにする。これが公式戦であれば、間違いなく途中棄権していただろうと伊月はラケットをむつみに返した。ニヤニヤしているむつみに伊月は気付き、そっぽを向いて蛇口のあるコートの隅へ歩いて行く。頭から水をかぶり、汗だくのシャツを脱いで水で洗う。一度絞って着たシャツはほどよく冷えて心地良いものだった。そよ風に当たりながらコート横の木陰を歩いて行くとむつみと入屋が笑顔を伊月に向けていた。二人が言いたいことはわかっている。

「コーチの件だが……引き受けてもいい」

「よっしゃ!」とむつみがガッツポーズを決める。しかし、伊月はすぐさま条件を提示した。

「ただし、俺は俺の意思で引き受ける。つまり、辞める時も俺の意思で俺のタイミングで辞める。縛られるのは嫌だからな」コートを一瞥し、それから暑さをしのぐために下を向いた状態で続ける。「それと、俺は別に技術指導が上手いわけじゃない。それなりのアドバイスはできるかもしれないが、期待は一切するな」

「それでもOKです!」と今度は入屋がガッツポーズを決めた。それから二人でハイタッチを決める。この二人はどこか通づるところがある。暑苦しくて、鬱陶しい。両者とも熱血馬鹿であることに気付いた伊月は、二人が姉弟のように見え始め、やはり鬱陶しいと思い始める。すると、グラウンド側からラケットを手にした生徒がわらわらと姿を現し、この場所へ向かってきていることに伊月は気付く。コーチに就任してしまった以上避けられない自己紹介。フェンスで囲まれたコートは、さながら伊月を逃がすまいとする巨人。逃げ道のない空間から目を背け、コートを横目に、伊月はじりじりと照り付ける太陽を睨みつけた。自己紹介は短めにしよう。伊月はそう決めた。



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