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二週に一日取れるか取れないかわからない貴重な休みは晴天に恵まれた。配達で使っている車は両親が使うため、頑固親父が乗り回してきた軽自動車に乗り込み、昼過ぎ、伊月は家を出た。
クーラーが壊れているため、手動で窓を開けて風を車内に取り込むしかない。真夏にこの車で渋滞にでも巻き込まれたら確実に車内で死ぬだろうと、とりあえず丁寧な運転を心がける。この田舎で渋滞に巻き込まれるようなことはなくとも、故障して田んぼ道のど真ん中に取り残されでもすれば軽く地獄なのだ。
しばらく車を走らせ、母校のテニスコート横を通り抜けていく。いつもの配達ルートを通り、途中から今まで入ったことがない道に入る。携帯でナビアプリを起動させ、ルートどおりに走って行くと、山沿いに校舎らしきものが遠くに見えてナビを停止させる。正門のプレートで斗洲高校であると確認し、少し離れた場所に駐車してぐるっと学校を一周することにした伊月は、途中の自販機で缶珈琲を買った。
休日の昼過ぎ、どの部活も何かしらの練習をしているのだろうと伊月は思っていたが、この炎天下の中、直射日光を浴びる最も暑い時間帯であるせいなのか、グラウンドを覗き込んでも誰一人として活動している生徒はいなかった。
「時間帯を間違えたか?」
しかし、今日は別に部活動を見学しに来たわけではない。何となく、天気がいいから散歩がてらここに来ただけなのだ。けして加賀むつみにコーチの依頼をされたことをきっかけに昔のことを思い出したせいで自然と足が向いたというわけではない。ただ、本当に何となくだった。コーチを引き受けるつもりもなければ、もう一度テニスをしようとも伊月は思っていないのだ。
のんびりと歩きながら時折冷たい珈琲で喉を潤し、そして遠くから聞えてきた懐かしい軽快な音に足を止める。母校と同じようにかなり背の高いフェンスで区切られた中に四面のコートがあった。母校と違って綺麗に整備されたコートはきちんとライン出しの作業をしてあり、ネットも雨風にさらされないように取り外して管理してある。備品も揃えてあり、ものを大事にしていることが見ただけでわかる。そのコートで、一人の少年がサーブの練習をしていた。フェンス越しに見て、伊月は目を鋭くさせた。彼のサーブは体幹のブレが一切なく、フォームも一切崩れることがなかった。ワックスで派手な髪形にしていることも相まって、見た目がさつそうな雰囲気を放っているが、サーブを見て、少年がかなりの技術を持っていることは明白であった。少年がホームページに載っていた新人戦で四回戦、もしくは三回戦に進出した選手だと伊月は確信した。確かに実力もあって、才能もある。将来的にプロになれるかなれないかは置いといて、かつて自分が接戦の末に敗北を喫した新山に比べると圧倒的な実力差は感じられるものの、それでも突出した実力を持ち、才能を持っていることは確かだとフェンスを掴む手に力が入る。
「あ、立花さん! 来てくれたんですか!」
場違いなほどに大きな声を出し、ラケットケースを肩にかけたジャージ姿の加賀むつみに見つかり、伊月は何となくその場から離れようとした。しかし、素早く回り込んできたむつみに妨害を受ける。
「散歩で来ただけだ。コーチ云々の話は関係ないからな」
「まあまあ、せっかく来られているんですからコートに入っていってください。生徒はまだ来ませんから、大丈夫ですよ」
「一人いるぞ」
「まあまあ」
嬉しそうにむつみは伊月をくるりと回転させ背中を押して行く。無抵抗の末に校内に連れて行かれ、テニスコートのある校舎隅まで移動すると、さっきまでサーブ練習をしていた少年がフェンスの門の前で待っていた。
「加賀さん、その人は?」
好奇心の塊のような声で訊かれた加賀はムスッとしている伊月を「君たちの新しいコーチだよ」と紹介した。当然ながら嘘である。了承すらしていないコーチ就任、勝手に紹介されてはたまったものではない。すぐさま伊月が否定しようとすると、瞳を輝かせながら満面の笑顔を浮かべる目の前の少年に圧倒され、伊月は言おうとしていた否定の言葉を間違って喉奥へと引っ込ませてしまった。
「マジで? じゃあ加賀さんは女テニに専念?」
「私一人だと無理が生じちゃうし、きちんと見てあげられないのはやっぱり中途半端になっちゃうし、やっぱり男女別に見たほうがいいだろうと思って。古藤先生からの依頼なのよ」
「そっかー、加賀コーチも大変そうだったもんね。うん、それが一番かもね」
うんうんと少年が頷き、むつみも同調するように頷き、伊月だけが無感情に佇んでいた。
「じゃあ少しだけ打ってよ、コーチ。サーブは俺からね」と少年が伊月の腕を引っ張り始め、打つ気のない伊月は拒むように立ち止まり、むつみを軽く睨むようにして見た。そしてむつみはおもむろに自分のラケットを差し出した。
「そうじゃねえだろ」
「え? ラケットを貸せって言われたような気がしたけれど?」
ラケットは受け取らず、仕方ないと加賀が代わりにコートに入った。ベンチに座り、少しばかり温くなった珈琲を飲む。
「加賀コーチじゃなくてその人と打ってみたい」
「わがまま言わないのー、ほらいくよー」
加賀は軽くサーブを打ち、少年も軽く打ち返す。優しいラリーが続く中、伊月は少年の動きに着目していた。動きも速く、的確なポジションに立つための俊敏さと判断力はなかなかのものだった。ステップの踏み方もタイミング良く、やはりフォームが崩れない少年の体幹の素晴らしさは賞賛すべきものだった。
天性的な才能は、見ているだけでかっこいいものである。少年であろうと、コートに立てば一端の選手であり、対戦相手がプロであっても互いにテニスプレーヤーであることには変わりない。
「あー、暑い!」
「加賀コーチはいつもそれだよ」
「入屋君と違ってナイーブなのよ」
むつみがラリーの途中で暑さに負け、打ち返されることのなかったボールが後方のネットを揺らす。おそらく今日はこの夏一番の暑さだろうと、自分の色白な肌が少しだけ焦げているように感じた伊月はそそくさと木陰に移動しようと項垂れていたむつきの背後を通り過ぎようとした。しかし捕縛された。彼女に捕まり、背中を押され、伊月はラケットを持たされて「交代!」と無理矢理コートに入れさせられた。それを見た少年、入屋が嬉しそうにボールを手にサービスラインまで下がっていく。これは参った、と伊月は仕方なくポジションに付いた。言い訳に運動靴ではなくサンダルでも履いてくればよかったなどと思っていると、軽いストレッチをする少年を見て昔の自分が重なって見えた。練習相手がいなければ実戦を想定した練習はあまりできない。それはかつての自分も同じだったのだ。
「自分だけがやる気あっても、周りはそれに応えてくれはしないんだよな」
「何か言いました?」とむつみに顔を覗き込まれる。咄嗟に受け取ってしまったラケットで彼女を押し退け、サービスラインから見える眺めを、伊月は小さく深呼吸をしてからゆっくりと見渡した。高校生の頃よりも数センチほど身長が伸びたからといって大きな変化はないだろうと伊月は決め付けていたが、こうして五年弱という時を越えてコートに立った今、コートがこれだけ広かったのかとラケットを握る手に力が入った。




