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「あ」と伊月は声を漏らし「何でもない」と即座に訂正する。不思議そうな顔をする入屋だったが、とくに追及することなく「そっか」と話題に終止符を打った。
それ以上の話題が見つけられずにいると、入屋は思い出したかのようにニヤニヤしながら伊月とむつみのツーショットを携帯カメラの連射モードで撮影し始める。
「結婚式には呼んでね!」と入屋が言い、むつみが顔を真っ赤にさせて「何言ってんの!?」と何故か伊月を突き飛ばしてコートのある方角へと走り去っていった。
パパラッチのような入屋に、伊月は仕返しに言い返す。
「女を選ぶかテニスを選ぶか、さっさと決めろよ」
「ぬあ!?」
硬直した入屋がふと挨拶をして横を通り過ぎたバレー部の女子に目を向け、目で追いかけ、顔を赤くさせた。とても分かりやすい反応に、伊月はからかわずにはいられなかった。
「なるほど、可愛い子じゃないか」
「違うからっ!」
そう入屋は叫んで図書室に向かって走り出した。途中、何度も「違うから!」と叫んでいたのが面白く、笑って眺めていた伊月に明智が唐突に頭を下げた。何事かと思ってきょとんとしていると、顔を上げた明智は薄らと笑顔を浮かべて言った。
「あの時のコーチの言葉がなければ、きっと駄目だっただろうねって、よく入屋と話をするんです。あんな場面で『決めてこい』とか言われるとは思ってもみなかったですから」
「あれは二人の実力と、皆からの送られた声援のおかげ、だろ?」
「……コーチらしいや」
笑って、明智は鞄を背負い直す。
「コーチ、続けるんですよね?」
「まあ、そうだな。一応、続ける意向は古藤先生にも伝えてある」
「……入屋も俺も、大学受験が終わったら時々顔を出します」
「ああ、歓迎するよ」
そう言って手を振り、明智の横を通り過ぎて行く。すると、明智が似合わない言葉を伊月の背中にぶつけてきた。
「コーチも、さっさと決めてきなよ」
「明智てめえっ!」
走って逃げだした明智を追いかけようとしたが、大人になれと踏み止まる。火照った身体を冷やそうと近くにあったウォーターサーバーで喉を潤し、両手にキンキンに冷えた水を溜めて顔にぶちまける。
「ああ、ああ、決めてやるよ、見てろよ、こんちくしょうめ」
ラケットケースを背負い直し、ムッとする空気を払いのけながらコートへ向かう。
コートで新一年生と二年生が練習を始めているのが見えて、むつみが出入り口のフェンスに寄りかかっているのが見えて、自然と早足になる。いつかと同じ夏空の下、伊月は軽快に走り出した。
『庭球の孤影』 了




