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 ◇


 自室に戻った伊月は敷きっぱなしにしていた布団に倒れ込んだ。ごろごろと転がっていると、階下で母親と言葉を交わすむつみの声が聞こえてきた。申し訳ない、失礼しました、などと言ってから正面玄関の扉の開け閉めする音が聞こえて数秒後、伊月は寝返りを打って仰向けになった。

「あのクソ野郎……俺の話をだしにして、彼女に鼻の下を伸ばしながら偽造した自慢話で格好つけたかっただけだろうが。胸糞悪い」

 手を伸ばして転がっていた携帯を取ろうとした伊月は、ふと見上げた先、天井付近まである大きな箪笥の上に古くなったぼろぼろの段ボールを見た。いつそれを置いたのか、それははっきりと記憶していた。高校最後の試合が終わったあの日の夜、無表情でテニスに関するものすべてを詰め込んだのだ。あれから五年以上が経ち、部屋の掃除中も気にしないようにスルーしてきたのだが、今日はどういうわけか伊月は気にせずにはいられなかった。

「……整理、するか」

 どうせ置いていても使わないのだから、とまるで言い訳をするようにして椅子を脚立代わりに使って段ボールを下す。埃を掃ってから、厳重に巻かれたガムテープに苦笑いを浮かべた。

「どんだけ開封しないようにしてたんだよ、俺って」

 過去の自分がどれだけの思いを抱いていたのかが伝わってくる梱包、カッターを握る手はとても丁寧な動きをして見せた。幾重にも巻かれたガムテープを切って、段ボールを開くと少しばかりのかび臭さと、独特な思い出の香りが漂ってきた。テニスの情報雑誌、技術書籍、リストバンド、シューズ、未開封の振動止め、スコア表、ユニフォーム、そしてラケット。

「……久しぶりだな」

 久しぶりに対面したラケットを手に取り、グリップを握ってみる。懐かしい感触と、思った以上にずしりと重さのあるラケット。思い出が次から次へと蘇ってくる中、やはり最後の試合の最後の一球だけが、どうしても鮮明な記憶として伊月の中に隠れ潜んでいた。

 伊月最後の試合の相手は、むつみの言っていたとおり、現在はプロテニスプレーヤーとして活躍している新山という選手だった。的確でコントロール抜群の高速サーブ、鋭く抉ってくるクロスショット、何度もパッシングショットで横を抜かれ、左右に走らされてからのドロップショットには脚に悲鳴を何度も上げさせられた。結局、彼が地区大会個人戦で優勝し、その後順調に勝ち上がっていった。

 奇しくも全国大会決勝で敗れはしたものの、その実力を全国にとどろかせたことには変わりなく、高校を卒業したのと同時に海外へテニス留学をしたと風の噂で伊月は耳にしていた。それから月日が流れ、今では新進気鋭のプロテニスプレーヤーとして活躍しているという、なんとも羨ましい人生を彼は送っている。対して自分は、と伊月は最後の試合を振り返った。がむしゃらに動き回り、とにかく挑戦者として噛みついていた。相手が格上であることが逆に良かったのだろう、いつも以上の実力が徐々に出始め、少しずつ盛り返していった。そして1セット目を落とした直後の2セット目、最初は0―5で負けていたところを盛り返し、逆転で2セット目を取った伊月は、その後接戦を繰り広げた。感覚が研ぎ澄まされていくのを肌で感じながら、しかし相手もさすがは強者、じりじりとポイントに差が出始める。そしてファイナルセットである3セット目は伊月のサーブミスでサービスゲームを落とし、ゲームカウント5ー4、30―40で新山にマッチポイント。ここで落とせば負けが決まる。深呼吸をしながらフェンスまで転がっていたボールを拾いに行った伊月は、集中力を研ぎ澄ましていると、そのフェンス越しにいた部員らと目が合った。その瞬間、伊月の中で何かが崩れ落ちた。

 団体戦をすでに敗退し、個人戦で勝ち進んでいた伊月以外の部員たちの目からは「早く帰りたい」という思いが伊月には伝わってきていた。彼らに、伊月を応援する意思はまったくなかった。携帯をいじって、持って来ていた漫画を読んで、売店で買ったお菓子を食べて、試合を見ているのは数人程度だったのだ。そしてその数人から向けられている目は強者に当たってしまった憐れみを籠めているかのように、冷たいものだった。顧問はベンチ座ってうたた寝をし、アドバイスも何もない。相手選手の応援が会場全体を揺らす。サーブポジションに立って、伊月は気付いた。これだけ選手がいて、チームメートがいて、人がいて、自分は一人なんだ、と。

 最後の一打、伊月のサーブから入ったラリーの末、試合は伊月にとって残酷な結末を迎えた。伊月の渾身の一打はネット上部に当たり、跳ね、ゆっくりとネットに沿うようにして伊月側のコートへと落下した。自分のミスが、すべてを終わらせてしまったのだ。

 今でも忘れることのない最後の一打。手に残った感触は間違いなく、いつもと違う感触だった。

「…………」

 悔しさが込み上げてきた伊月はラケットを置いてベランダに出た。日が暮れるのが遅くなったこともあり、夕方の六時を過ぎても外は明るかった。手すりに寄りかかってポケットに入っていた煙草を取り出すも、ライターが見つからず仕方なく咥えるだけにする。

 あの試合を最後に、伊月はテニスをしなくなった。逃げたのかと訊かれれば、逃げたことになるのだろうと自分の弱さに伊月は腹が立ってくる。そして同時に情けなくなり、煙草を戻してしゃがみ込む。

「コーチ、か」

 部屋に戻り、携帯で斗洲高校を検索する。伊月の家からそれほど距離はない。調べてみると母校に比べるとスポーツに力は入れていないようだが、それなりに結果を出している部活動が多かった。

「テニス部は……んん」

 更新はされていたが、試合結果のほとんどが一回戦負け。団体戦も同じように一回戦負けで二年前に二回戦に進出して以来、一度も勝ったことがないようだった。しかし、中には新人戦で四回戦までいった選手と、三回戦までいった選手がいた。二人とも現在二年生で部活の中心メンバーであることは間違いない。ふと、むつみが「実力も才能もある子供たち」という言葉を言っていたな、と思い出した伊月は、おそらくこの二人のことを指しての言葉だったのだろうとホームページを閉じた。そして足元に置いていたラケットを手に取り、しばし眺め、階下から届いてきた頑固親父の「伊月、手伝え!」という怒声とも思えるいつもの声に「今行く」とラケットをテーブルに置いて部屋を出た。



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