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 正体不明の何かを隠し、覆うものが少しずつ溶けだしていく。残ったのは、彼女が話してくれた自身のことだった。

「話しましたよね? 私の最後の試合のこと、私のことを」

「……ああ」

 小さい頃から彼女は、何かを頑張ろうとすると、必ずそれを阻むような出来事に遭遇してしまう。まるで呪われているようだと。最後の試合も、それが原因で最悪な終わり方をしてしまったと。

 思い出し、彼女が謝る理由をようやく伊月は理解した。古藤先生が腰を痛めたことも、高速道路での事故も、重なったすべての不運が自分のせいだと彼女は思っている。そんな馬鹿げたことでも、信じてしまうほどの経験を彼女はしてきた。だからこそ、彼女は謝り続けていたのだ。大会に間に合わなかったのは、すべてが自分のせいだと決めつけて、傷付けて。

「全部お前のせいなんて、馬鹿なことを言うな」

 伊月がむつみの頭に触れると、彼女はさらに顔を伊月の胸に押し付けてくる。

「……私、嘘を吐いてきました。ずっと、立花さんに嘘を吐いてきました」

「そっか、どんな嘘だ」

 優しく返事をして、背もたれに体重をかける。むつみは少しだけ間を空けてから話し始めた。

「友達から立花さんのことを聞いたというのは、嘘です。ずっと前から、私は立花さんのことを知っていました。私は」息を吸い、ゆっくり吐き出しながら彼女は呟くように言う。「立花さんの最後の試合を、私はその場で見ていました」

 彼女の告白は伊月にとって衝撃的といえば衝撃的ではあった。だが、伊月は動じることなく耳を傾ける。

「自分の最後の試合が呆気ない終わり方をして、落ち込んでいました。試合の最中に靴紐が切れたり、張り替えたばっかりのガットが切れたり、最悪な試合でした。団体戦も個人戦も終わって、友達の試合も終わって、何もなくなったとき、私は一人帰ろうとしていました。そのとき、ある試合が視界に入って来て、私は吸い込まれるようにその試合を見に行きました。それが」

「俺の試合だったわけだ」

 新山との激戦。そして、伊月にとって忘れようもない、テニスを辞めるきっかけになった最後の試合。

「……なんてすごい試合なんだろうって、手に汗握りながら見ていました。打つたびに、打ち返すたびに、二人のラリーがとても楽しそうで、私もこんなふうに打てたらいいのにって……呑気なことを思っていました」

 あの試合の最中、伊月は周囲のことなどまったく見ることができなかった。それだけ集中し、それだけ勝ちをもぎ取ろうとしていた。その、見ることのできなかった観客の中に、彼女はいたのだ。

「最後まで見ていたかったんです。やる気をもらえるように思えて、もっとテニスがしたいって思えるように感じて……でもあの瞬間を見てしまって、私は後悔しました」

 伊月はあの瞬間という言葉が何なのか、すぐに理解した。

 自分が独りであったことに気付き、心にひびが入った直後の最後の一球。ネットに阻まれ、越えることなく無残に転げ落ちていったボール。

 試合を終わらせた、最悪な一球。

「私が……私がいなければ、立花さんは勝てていたかもしれないんです。コートを離れて、さっさと帰っていれば、呪われている自分がいなければ、立花さんが辛い目に遭うこともなかったんです。全部、私がいたから……狂っちゃったんです。ずっとそれを引きずって、コーチを受けたとき、チャンスだと思ったんです。立花さんに戻ってきてもらいたい一心で、コーチの依頼をしに行ったんです。私が奪ってしまったものを、どうにかして……」

 彼女の言葉を最後まで聞き、伊月はしばし瞼を下して黙り込んだ。

 思い出される最後の試合が、鮮明に再生される。最初のサーブから、最後の一球まで。コートチェンジで相手とすれ違うときのぴりぴりとした空気も、芝を走る足の裏の感覚も、相手が打つその瞬間に打つ方向を察知し、全身が無意識に動き出す不思議な感覚も、最後の一球の打球感も、何もかもが蘇る。懐かしさもあり、それでも悔しさのほうが濃く、舞台を下りたときの心境は思い出すだけで息が詰まりそうになる。だが、伊月は笑み、むつみの頭を掴み、軽く揺さぶった。

 太陽を雲が覆い、差し込んでいた陽射しが途絶える。

「馬鹿だな、お前は。あれは……最後の一球をネットの向こう側に打ち込めなかったのは、俺の心の弱さが生み出した結果なんだ。お前がいたせいで俺の人生を狂わせたってか? 阿呆、だったら俺は今、テニスからもっと遠い場所にいたはずだ」

 独りだったことに気付いて、絶望して、失敗して、諦めて、離れて行って――再び戻って来られた。トンネルを抜けたときのように、眩い日差しが車内に差し込み、一気に明るくなる。

「加賀、お前が俺を見つけてくれた」

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