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 正直なところ、伊月は他人の車を運転したくない人間だ。それでも緊急事態であれば致し方ないと運転手を買って出ようと思ったが、寸前で「うちの奥さんに頼んだから大丈夫」と呻き声と一緒に古藤先生が伊月の挙手を押しとどめた。急な話だったこともあり、奥さんの準備等で多少の遅れは出たものの、出発時刻に対して十分程度の遅れ、とくに支障はないだろうと伊月は後部座席に乗り込みシートベルトを装着した。腰をやってしまったという古藤先生本人は、本来なら安静にしておくべきなのだが、一応は責任者だから、ということで、助手席に座って奥さんにナビをしながら、揺れる度に低い呻き声を上げていた。

 高速道路までの道のりにどれだけ古藤先生の呻き声を聞いたかはわからなかったが、高速道路に入ると比較的段差が少ないおかげか、幾分古藤先生は楽そうに見えた。そんな彼を横目で見て、運転中の奥さんが笑いながら言う。

「この人、年甲斐もなく昨日の夜からはしゃいじゃってね。そしたら、今朝になってトイレに起きた瞬間叫ぶんだもの、驚いちゃったわ」

「はしゃいでいたんですか」

 想像できず、しかし茶目っ気のある先生だということは以前から伊月も薄々気付いていたことではある。そっぽを向いている古藤先生が急に子供っぽく見えて、隣のむつみがクスッと笑った。

「加賀コーチが来てくれて、立花コーチが来てくれた。テニスのことを何もわからない自分にできることなんて責任を取ることぐらいだった。でも、二人が来てくれて、不思議とやる気が湧いてきたんですよ」腰を擦りながら、古藤先生は続ける。「少しずつですが、ルールも理解できるようにと勉強をして、アドバイスはできないですが、練習用のビデオ撮影や備品の調達、自分にできる限りのことをやるようになりました。お二人が来てくれていなければ、間違いなく、あの子たちの才能は伸びなかった。強くなるということは、上手くなるということでしょう。上手くなれば楽しくなる。もっとテニスが楽しくなる。だからあの子たちが心からテニスを楽しんでいる光景が、わたしは見ていてとても嬉しかったです」

 奥さんが微笑み、むつみが照れて下を向いた。伊月は、真っ直ぐ前を向いたまま、真剣な目を古藤先生に向けていた。

「俺は……焚きつけただけです」

 膝に乗せたショルダーバッグを握るように持ち、言葉を絞り出す。

「あいつらの中に元々あった熱を、炎に変えただけですよ。それに、俺は少し厳しくし過ぎていたように思えるんです。あいつらから楽しいと思えるテニスを奪っているんじゃないかって……少し、怖いと思っている部分があったような気がしてなりません。でも、それでも部内戦が終わって、あいつらの笑顔が見ることができたとき、気が楽になりました。間違っていなかったんだって」不意に先日の入屋からの電話を思い出し、奥歯を噛みしめる。「不安な気持ちにもさせました。辛い思いにも、苦しい思いにもさせました。俺は、それを全部乗り越えてくれると信じていました。だから、今日のあいつらに全力で楽しんでもらいたいんです。今までのことが意味のあることだったと、後悔を残さない試合をしてほしいんです」

「……意外と熱いですね、立花コーチは」

 古藤先生が笑い出し、奥さんもむつみも笑い出す。急に恥ずかしくなった伊月はニヤニヤしているむつみの顔を横から鷲掴みにする。「ごめんなさい! ごめんなさい!」とむつみが謝り、しかし、それでも彼女の顔から笑みは消えなかった。ふて腐れていると、奥さんが「今年の斗洲高校テニス部は、期待できるわね」と笑みをこぼした。

「期待という言葉はスポーツ選手だけでなくともプレッシャーになりますけれど、今のあいつらにはいい燃料になるでしょう」

 そう思える、と伊月はむつみの顔から手を離し、携帯を取り出して時刻の確認をする。余裕もある。先に試合会場に着いてからの順序をむつみと話し合うことに。まずは場所を確保して遮光用テントを立て、シートを敷き、飲み物と保冷材が入ったクーラーボックスやビデオカメラ等の機材の入った鞄でシートを押さえる。ビデオカメラのセッティングと開会式から始まる試合の日程を再度確認し、合流した部員たちとミーティングを行う。そして団体戦の一回戦に向けて、レギュラー陣に心構えを――と、伊月とむつみが段取りを組んでいるとき、高速道路だというのに、ゆっくりと車が停車した。異変に気付き、伊月は奥さんに訊ねるより前に、前方を見て唖然とした。

「まさか……渋滞ですか?」

「そうみたい……いくらゴールデンウィークでも、この時間帯で渋滞するなんて」

 ゴールデンウィークの初日、しかし早朝六時の段階でここまで混むような道路ではない。何かあったのだろうと伊月は携帯で交通情報を調べる。すると、交通情報が更新され、伊月たちがいる高速道路の先でタンクローリーの横転事故が発生していることがわかった。伊月たちは事故現場より先で高速道路を下りる予定だった。

「横転ってことは、完全に道を塞いだか?」

「じゃあ、しばらく動けないんじゃ……!」

 むつみが顔を青くさせ、古藤先生も口をあんぐり開いている。伊月が寝坊したからでもなく、古藤先生が腰を痛めたからでもなく、奥さんが急な準備に時間がかかったからでもなく、不運とも言える事故。

 参った、と伊月は携帯画面を電話帳の画面へ。それを見たむつみも携帯を取り出して操作する。「女子に男子と合流するように伝えろ」とむつみに伝えて、伊月はすぐさま明智に電話をかけた。古藤先生が「明石さんに連絡を入れておきます。手を貸してくれるでしょう」と言って、伊月が頷くと同時に明智が電話に出た。

「明智か? 今どこにいる?」

『おはようございます。今は、駅です。皆で集まって行くことにしていたんですが、あの馬鹿が寝坊したんで予定していた時間には着きませんけれど、余裕で間に合うかと思います』

「それならいい。ただ、こっちで問題が発生してな、高速道路で事故が起きて、予定時刻に会場へ到着できないかも……いや、かなり遅れての到着になると思う」

『コーチたちは無事なんですか?』

 驚いた声で明智は言った。まさか自分たちの身の安全まで気にかけてくれるとは思ってもみなかった伊月は、つくづく明智が部長で良かったと息を漏らした。

「大丈夫、巻き込まれたのは渋滞だけだ。とにかく、遅れての到着になる。一年に指示を出してスポーツドリンクをありったけ買わせておけ。あとで俺がまとめて払う。それから試合の組み合わせ表は持っているか?」

『はい。日程表もあります』

「よし。とりあえず俺たちは急いでそっちに向かう。必ず女子と合流して、同じ場所に集合をしろ。できる限り日陰を確保して、まとまって行動するように。何かあればすぐに電話をしろ。最悪、会場にいる明石総監督を見つけて相談しろ。古藤先生が事情を伝えてくれている……お前には負担をかけてしまう。すまん」

『いえ、問題ありません。コーチのほうこそ、慌てないで来てください』

「ん、ああ、まあ、わかった」

 大人だな、と伊月が明智の対応に驚いていると、明智の力がこもった声が耳元に届いてきた。

『俺たちは負けませんから』

 ぐ、と胸にこみ上げてくるものを抑え込み、伊月は笑った。

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