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 長かった冬が終わり、雪かきが不要になった。木々から芽吹いた緑が地元の色のように思えるほど、見渡すは春の景色。この景色を見て育ってきた伊月ではあるが、毎年見てきた景色とどこか違うように伊月の瞳には映って見えていた。それがおんぼろ車の隣に誰かが座るようになったからか、それとも自身の心境に何かしらの変化があったからか。どちらにしても、去年の夏がターニングポイントだったことには変わりない。

 車は伊月の実家から二十分とかからない場所にある公園の駐車場へ。車から降りた伊月とむつみはそれぞれラケットを手に取り、事務所へ手続きに向かった。まだ伊月がテニスをしていた高校生の頃、部活とはまた別に練習をしていた場所だ。芝のコートがずらりと並び、一区画だけセンターコートと呼ばれる観客席の付いたコートがある。そこに予約を入れていた伊月は書類にサインをしてからコート代を払い、むつみを連れてそのセンターコートに向かう。すれ違うは他のコートで打っている子供たちや学生だけでなく、老若男女様々。一時的ではあるだろうが、どうやら世間ではテニスブームが巻き起こっていた。マナーを守らないプレーヤーもいるが、やはり、打っているときの表情を見れば誰もが楽しんでプレーをしていることがわかる。テニスが好きな人が集まっている。その中に自分がいる不思議な感覚は、テニスから離れていた五年近くの期間がそういうふうに感じさせているのだ。

「どうしました? 何か忘れ物ですか?」

 むつみが訊ねてきて、どうやら変な顔をしていたのだろうと伊月は顔を左右に振って、一度は手放したラケットを握り締める。そして思うのは、やはり自分はテニスが大好きであるということだ。

 言い出したのは伊月のほうだった。選手たちと同じ感覚でいたいという理由で芝コートのあるここで打っておきたかったのだ。そういうことで、相手として選んだのがむつみだ。どうせ暇だろ、と伊月が誘うと怒ったように何かを言われたような気がしたが、仕事の最中に電話をしていたこともあって背後からの拳骨二連撃がむつみの怒ったような声を阻んだ。しかし、彼女は最後にはすっきりしたのか、あっさり承諾し、こうして一緒にコートにやって来たのだ。

 ストレッチを入念にしてからネットに近いところでのミニラリーをして、ボレーやスマッシュを軽くしたあと、後ろまで下がった二人はラリーを始めた。むつみとこうして打ち合うのは、実はこれが初めてのことだった。しっかりと芯で捉えて打ってくる彼女はコーチを引き受けるだけの実力をしっかりと伊月に見せてくる。時折ニヤッとして何か言いたげな眼差しを向けてくるが、考え事をし始めた伊月はそれをスルー、考えるはもうじき始まる、始まってしまう大会のことだ。

 一年生が入ってきたことで全員の気が引き締まったことは言うまでもなく、三年生になったという自覚から全員の動きも大きく変化した。自分たちのプレーは、これから斗洲高校テニス部を引っ張っていく彼らに、大きな影響を与えると無意識に感じ取っているのだろうと伊月は思った。部内戦を終えてから、部の雰囲気は以前よりも熱くなり、絆が強まったことで活気にも満ち溢れていた。基礎練でも試合形式の試合でも熱量が尋常ではなく、青春がそこにあった。

 その中にたった一人、以前と違う雰囲気を放っている部員がいた。明智に部内戦で敗北し、団体戦シングルス2となった入屋司だ。普段からムードメーカーのように部を明るく飾ってきた彼が、部内戦以降、真剣な顔つきを緩めることはなかった。ライバル意識のあった明智に負けた悔しさなのか、自分の全力を出し切れなかった自身への怒りなのか――試合を決めた渾身の一球が自滅点で終わったからなのか。何にせよ、入屋のプレーにむらがなくなってきたのは確かだった。負けたことで、彼なりに得たものがあったと捉えるしかなく、伊月のほうから何かしら声をかけるような真似はしなかった。彼が悩み、悔やみ、乗り越えていくのを信じるしかないのだ。勝ったほうの明智はいつものペースで、クールに、そして熱くなる時は熱くなる、それは変わらなかった。しかし、どこかで入屋を意識していることはコート外から見ている伊月には丸わかりで、それこそ逆に明智のほうのプレーにむらが出始めていた。気にするなと言えば余計に気にするだろう。しかし、放置し、彼らの中で消化することを見て待っているだけで大丈夫なのかが伊月にはわからなかった。

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