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「思い出した! きみ、立花くんだよね? だよね?」

「ええ……えっと、どこかでお会いしましたか?」

 戸惑っていると、明石が片岡を紹介してくれた。その間、ずっと片岡は嬉しそうに、中年の男には似合わない煌めいた瞳をしていた。

「彼は片岡鴻太郎(こうたろう)さん、ヨーロッパのプロ育成アカデミーのスカウトマンだよ」

「スカウトマン?」

 スカウトされた記憶もなければ、片岡と会った記憶もない。しかし、彼が伊月を知っている以上、どこかで会ったのは確かなようだった。大会優勝者といった有名な人間ではないのだから、記事で伊月の名前を知ったとしても、顔までは知らないはずなのだ。彼の場合、伊月を観察してから気付いたのだから、直接会った過去があるはずだ。

 思い出せずに腕を組んでいると、片岡が答えを教えてくれた。

「五、六年前だったね、きみがあの死闘を見せてくれたのは」

 五、六年前となるとちょうど伊月がテニスを辞めた頃、つまりその頃に彼と出会ったとすれば、死闘という言葉が当てはまる試合といえば、間違いない、と伊月は自身最後の公式戦を思い出し、暗い顔をした。

「あの試合を僕は最初から最後まで見ていた。本当はジュニア時代から頭角を現していた新山くんを視察にきていたんだが、予想外な選手に出会った。それがきみだ」

 微かに聞こえてくる打球音に、片岡は視線を窓の向こうへ向け、ちょうど明石と入屋がサーブを打っている姿が見えた。

「あの試合で、僕はきみのプレーに魅了された。死にもの狂いでありながらも一球一球に込められた強い気持ちは、きみが打つたびにフェンス越しに伝わってきたよ。あれは衝撃的だった。どうしてきみが無名なのかが不思議でならなかった」

「俺は、草トーナメントぐらいしか出ていませんでした。公式戦は、ほとんど経験がありませんから」

「だろうね。きみのところの顧問の先生を見たらすぐにわかったよ。勿体ない、と僕は悔しかったね。とくにきみがあの試合を最後に、テニスを辞めたことを知ったときには悔しさでラケットを圧し折りそうだった。試合が終わったあと、声をかけたのは僕だよ。覚えているかな?」

 言われて、突然脳内で記憶が呼び覚まされた。あの試合ですっかり身体も心も冷え切っていた。会場から離れて広場に無意識で移動したとき、そのとき確かに、誰かに声をかけられたような気もした。それが片岡だったのだ。

「きみはすっかり意気消沈といった感じで死んだような目をしていたよ。試合に負けただけでは、ああはならんだろう。何があったのか、さすがに僕もわからなかったからね、声をかけて、すぐにやめたよ。あのときのきみは、他人の声が届かない場所にいたように思えたからね」

 ぐ、と拳を握り、伊月は頭を下げた。

「すみませんでした」

「いやいやいや、謝らんでくれ。むしろあんなときに話しかけようとした僕のほうが間の悪かった……しかし、本当に惜しい」言葉通り、彼は惜しそうに言った。「きみの腕ならプロに通用したはずなんだ。試合後に新山くんと話したけれど、べた褒めだった。もう一度きみと試合がしたいとも言っていた。あんなに追い詰められた試合はなかったと目の色が変わっていた。あのあと帰ってしまったきみは知らないだろうが、決勝戦の新山くんのプレーは明らかに今までのものとは異なっていた。きみが、彼を大きく変えた。あのひと試合だけで、きみは人の心を大きく動かした。僕はね、プロとなった今の新山くんの基盤には、きみの存在があると今でも思っている」

「…………大袈裟ですよ」

「大袈裟なものか。人が人を変える、それは奇跡的なことなんだよ」

 らしくもなく、伊月は溢れ出てきた感情に揺れ、誤魔化すために窓の向こうへ目を向けた。以前と比べ物にならないほどに成長した子供たちが、互いを高め合いながら、練習に励んでいる。いつもは調子付いて鬱陶しい入屋も、コートに入れば人が変わったように、楽しそうに、自身のプレーを全力で表に出そうとしている。明智も、クールを装いながらも、胸の奥に秘めていた炎がコートに入れば噴き出し、練習であろうと最高のプレーを自分の中から引き出そうとしている。彼らは、互いに変わろうとして、刺激し合っている。片岡の言う奇跡的なことは、すぐ傍に、目の前に広がっていた。

「今はコーチをしているようだね。良かった。テニスが嫌いになったのではないかと思っていたから、本当に良かった」

 窓に歩み寄り、片岡が言う。

「良い目だ」

「でしょう?」と伊月が教え子たちを見ていると、片岡と明石が急に笑い出した。何かおかしなことを言っただろうかと思っていると、片岡はニッと笑い、伊月の頭を軽く叩いた。そして、伊月は彼の言葉にうっかり顔を赤らめた。

「きみのことを言ったんだよ」

 これには、さすがの伊月も照れるほかなかった。


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