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テニスを辞めて五年弱、その間、ハンドルを握るこの手がラケットを握ったことは一度もなかった。高校までずっと、土日祝日、暇さえあれば学校まで自転車を走らせてコートに通って打ち続けていたというのに、あっさりと高校最後の大会を機に伊月は辞めてしまった。胸の中で轟々と燃えていたはずの炎は、すっかり消えてしまっていたのだ。そして、すっからかんになった伊月は大学に入ってからもテニスサークルには入らず、日々をバイトや読書で過ごし、何とも味気ないキャンパスライフを終え、実家に就職する形となった。熱意を失ったことで、伊月の人生は大きな起伏を求めなくなっていた。すべては伊月の持っていた熱意が原因で、高校最後の大会が引き金であった。
「今帰った」
車を車庫に止めてから店に入ると、母親が店内の清掃をしながら伊月に話しかけてきた。
「伊月、お客さん」
「客?」
珍しいこともあるものだと、自身の交友関係の狭さを自虐しつつ店の奥へと向かう。履いていたサンダルを脱いで裏手の休憩室代わりに使っている和室へ入ると、女性の後ろ姿があった。ぴんとした背筋から育ちの良さを感じ取った伊月は、いくら頭の中の引き出しをひっくり返しても覚えのある人物が見つけられず首を傾げた。すると、ゆっくりと女性が振り返り、伊月は目を丸くさせながら軽くお辞儀をした。活発そうな目元とは対照的に柔らかな表情はどこか母性すらも感じられるほど優しいものだった。日焼けだろう、肌は軽い褐色に染まり、夏を体現しているかのような彼女の向かい側に真っ白な肌をした伊月は座った。母親が出したと思われるお茶を軽くすすったスーツ姿の彼女は、小さくお辞儀をしてから顔を上げた。
「加賀むつみです」
「はあ……えっと」
「あれ? わかりません?」
少し驚いたような顔をされて再び脳内で検索をかけるも、加賀むつみという女性に心当たりはなかった。仕方なく、正直に頷くと彼女は少し残念そうに、しかしどこか照れたようにして言った。
「いつもこちらで日本酒を購入しているんです。そのとき、結構な頻度で顔を合わせていたので、てっきり顔を覚えてもらえているものだと……すみません、自意識過剰でした」
言われてぼんやりと記憶の中に浮かんできたむつみの姿に、伊月は思わず声を上げた。
「もしかして、いつも夜の七時頃に……」
「そうですそうです! いやー、何かホッとしました。そういえば名前をお伝えしたこと、ありませんでしたものね。それに格好もいつもはジャージ姿ですから」
笑いながらむつみは座り直し、安堵した様子で息を吐いた。彼女は毎週金曜日の夜七時、毎週のように日本酒を買いに来きていたが、伊月が対応をしたのは数回程度だ。それでも常連客であることには変わらない。少なからず挨拶も交わしたこともあるはずなのだが、はっきりとした記憶に残っていないのは、おそらく伊月が他人にあまり関心を持っていないせいであろう。頭を掻いて誤魔化しつつ、伊月は胡坐を掻いた。
「それで、加賀さんは俺に何の用が?」
「あ、はい、実は立花さんの話を小耳にはさみまして、是非ともお力添えを願いたくて」
「俺の話?」
ろくな話ではないだろうと思っていると、むつみは内ポケットから取り出した一枚の紙をテーブルに置いて伊月の前へと動かした。眺めてみると、紙の一番上に大きな文字で「テニスコーチの依頼について」という題が書かれていた。眉間にしわを寄せ、そのままむつみのほうへ視線を向ける。すると、彼女は真剣な面持ちで伊月に真っ直ぐな目を向けてきた。
「兵北高校元テニス部部長、立花伊月さんにお願いがあって来ました」
「紙を見ればそのお願いとやらが何なのかはわかる。それより、誰から俺がテニスをしていたと聞いた?」
「テニススクールで会った、兵北高校の顧問の先生からです」
あいつか、と思いながら伊月は後ろに両手を衝いて天井を見上げた。胸糞悪い記憶が頭の中でざりざりと音を立てる。
「立花さんが地区大会の個人戦で準決勝まで駒を進めたときの話を聞きました。自分が教えた生徒の中で唯一自慢できる生徒だ、と」




