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「わらしにできることは、一緒に飲んで、愚痴を聞いてあげることだけれす」
「もうかなり酔いが回っているから、あまり飲むなよ」
「だったら代わりに立花さんがのんれくらはい」
「お前、さては酒癖悪いから独り酒してきたんだな?」
彼女の酒癖の悪さを知った伊月は急いで大将にビール瓶の追加を取り消した。どうやら大将はわかっていたようで準備はしていなかった。大将のおごりの日本酒は彼女の名前でキープしてもらい、湯豆腐を食べ終えた伊月はさっさと勘定終わらせて彼女を連れて店を出た。さすがに店に迷惑がかかると踏んだ伊月はとりあえず家まで送ろうと考えるが、千鳥足の彼女を連れて行くにはかなり面倒だった。
仕方ない、と伊月は自分の家にいったん連れて帰ることにした。面倒見のいい母親なら介抱ぐらいはしてくれるだろうとむつみの腕を首に回してゆっくりと歩き出す。
「立花さあん」
「どうした、小便か」
「吐く」
「待て待て待て!」
すぐさま側溝近くまで連れて行き、急いで自販機を探し、スポーツドリンクを買った伊月は四つん這いになって苦しそうにしているむつみの背中をさする。しばらくして落ち着いたむつみは、今度は甘え口調になって、伊月の背中に飛び乗って来る。これはかなり鬱陶しい、と伊月は嫌な顔をしたが、酔っ払いを放置して事故にでも遭われたら気分が悪いと要望に応えて背中にむつきを背負う。
「この阿呆」
「加賀むつみです」
「阿呆」
変な休日になってしまったと後悔しながら背負って歩いていると、彼女がぼそぼそと話し始めた。
「私の話も聞いてくれます?」
「勝手に喋れ」
「私、ずっと自分のことが嫌いだったんですよ。いつもいつも、小さい頃から、何かを頑張ろうとしたら、必ずそれを阻むような出来事とかに遭遇しちゃうんです」掠れた声で、彼女は続ける。「大学最後の試合、順調に勝ち進んでいたんですよ。でも、翌日のシングルスの三回戦だったかな? 移動中の電車が人身事故で緊急停車して、それが原因で結局、試合に間に合わなかったんです。でも、それは仕方ないです。事故だから。だけど、唯一出場できたダブルスの試合は、ボロボロでした。私、動揺していたんですよ、やっぱり。人身事故に遭遇した驚きだったり、味わった急停止した時の恐怖だったり、試合に間に合わなかったショックだったりが混ざり合って、まったく身体が動かなかったんです。パートナーにも悲しい思いをさせて、その日はずっと泣いていました。それが、私にとって最後の試合でした」
クスクスと笑っているが、伊月は彼女が泣いているのが、こぼれ落ちた涙が首筋を伝ってきたせいでわかっていた。
「私、呪われているのかなって本気で思ったりして、馬鹿みたいですよね。馬鹿ですよ。うん、私は、馬鹿です。阿呆です。立花さんの言うとおり、私は阿呆な子です」
「……わかったから、もう言うな」
「何でです?」
「いいから、それ以上自分を傷付けるな」
彼女の痛みが、少しだけ伊月はわかった。最後の試合が後悔の残る形で終わり、彼女もまた、伊月と同じように過去に囚われ続けている。その過去を覆い隠すために、明るい自分を振る舞っているのだ。
戻れない時を恨み、自身の運命を呪い、戻ることができない舞台を遠くで見つめてきた。そして、彼女はかつての自分を斗洲高校のテニス部部員に重ね、彼らのために何かできないかという思いから、伊月をコーチに招いたのだろうと、伊月は推測した。必死だったのだろう。自分の傷を抉ってでも、戻ることができない舞台に上がることのできる連中の傍にいてあげて、力になってあげようとしている。
「俺はさ、最後の試合は後悔のないような試合をしたつもりだ。でも、最後の一球は、もしかしたら自分の中に諦めが生まれてしまったせいでミスをしたのかもしれないと思っているんだ」
近道の畦道を通り、鈴虫が鳴き出したとき、伊月は立ち止まった。
「目標を高く持って、全国大会優勝を目指してきた。でも、それが独りだけの目標だとわかったとき、やっぱり無謀な夢なのかなって……思ってしまったんだと、思う」
だから、最後の一球はいつもの自分が打つ打球ではなかったのだろう。迷いや諦めが、そういう運命に自ら向かって、飛び込んでしまった。孤独だとわかって、早く楽になりたいと、そう思ってしまったのかもしれない。
「諦められなくて、でも諦めなきゃならなくて――あいつらといる時間が、辛いときがある。あいつらは、俺の持っていないものを全部持っているように思えてならないから、羨ましいと思ってしまうから」
むつみがもぞもぞと動き、背中がくすぐられる。歩き出し、伊月はふと思った。入屋や明智は、伊月たちがもう二度と立つことのできない舞台にいる彼らは、何を目指して、何を手に入れたくて、どうなりたいのだろうか。伊月はどうしようもなく知りたくなった。
そして同時に、他人に興味を持つようになった自分に戸惑い、暗闇の中、空いっぱいに広がっている星たちに目を奪われ、その眩い煌めきに不安な気持ちが照らし出されたような気がした。まるで、秘密を暴かれたような気分に、伊月は振り切るように畦道を進み始めた。




