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罠にかかったむつきはハッとして、それからムッとした。手の平の上で転がされたかのような誘導に腹が立ったのだろう。軽く脚を蹴られたが、蹴り返すような大人げない行為はしない。
「ちょっと気になったことがあったので、ご自宅でご両親にここにいると教えていただいたんです」
「それであっさりと教えてもらったのか……口の軽い親だ」
拳骨や体重は重いくせに、と両親の愚痴を垂れる。
「実は、私の友達に兵北高校卒の子がいるんですが、その子が……今日が高校のときの同窓会だって教えてくれたんです」
ゴミ箱に捨てた招待状を思い出し、グイッと残りの日本酒を飲み干す。ビールに戻って、少しだけ温くなったビールを喉の奥へ流し込む。
「行かれなかったんですね」
「……まあな。ああ、わかった。お前が言いたいことが、わかったよ」
手酌でビールを注ぎ、もう一杯飲み干す。アルコールが回ってきたのか、軽く視界が揺らぐ。酒は強いほうだが、一気飲みはどうも酒の回り方が早いようだった。
「友達だっていうその子は女子テニス部の誰かか。だとしたら、俺の最後の試合を知っているよな……どこまでお前は聞いたんだ?」
少し渋った彼女だったが、持っていたお猪口を置いて彼女は話し始めた。
「最後の試合がとても辛いものだった、と。詳しくは聞いていません。でも、テニスを辞めたくなるほどのことだったとだけ、聞きました」
「……その通りだよ」
軟骨の唐揚げを口に放り込み、がりがりと奥歯でかみ砕く。あの日の記憶も一緒にかみ砕きたい思いではあったが、どうもかみ砕くには、遠すぎる過去だった。
「最後の試合、俺は独りだったことを知った。俺だけだったんだ。団体戦でも、個人戦でも、どの試合でも、三年間ずっと、独りだったんだ」
「それは、どういう意味ですか?」
酒の席、もはや隠してもわかることだと伊月は酒の勢いに任せて話すことにした。
「笑ってもいいぞ。俺が高校一年生のときに掲げた目標は、全国大会で優勝することだった」
彼女はじっと伊月の横顔を見つめていた。奥の座席でサラリーマン風の男性らが内輪の中でどっと笑い声を上げる。
「だから、俺はずっと、毎日のように練習してきた。休み時間を使って素振りをしたり、プロの試合を生で見たり、映像で何度も見て研究したり、真似をしてみたり、できることは何でもやった。強くなって、皆で全国に行きたいと思っていたから、余計に頑張れたんだ。俺の目標は、三年間ずっと変わらなかった。二年生のときに団体戦に参加して、結果的に負けはしたけれど、手ごたえはあった。三年生が引退してから、同級生と一緒に今度こそ全国に行こうと約束したんだ。それからは、それまで以上の努力をしてきた。自分が頑張れば士気も上がると思っていた。全員が一致団結すれば、きっと、必ず全国への道は切り開かれると、思っていたんだ」
頼んでいた湯豆腐を大将はカウンターに置いて、すぐにその場を離れた。空気を読んでくれたのだろうと思い、伊月は存分に告白した。
ずっと、誰にも言わずにいたことを、言葉にして隣のむつみに伝える。
「でもな、それは全部、俺の勘違いだったんだ。俺はただ、一人で突っ走っていただけで、誰も後ろに付いて来てはいなかったんだ」湯豆腐の一切れ口に運び、伊月は続ける。「全国を目指していたのは、俺だけだった。地区大会の団体戦、最後の団体戦、負けて悔しかったのは俺だけだった。顧問もやる気ゼロ、皆の中にもやる気がまったくなかったことを、俺は最後の大会で気付いてしまったんだ」
負けて泣いていた奴は、悔しそうにしている奴は、一人もいなかった。
負けても気にしていない奴らだけしかいなかった。
それに気付いたのは、団体戦が終わった後の、個人戦の最中だった。
「個人戦で準決勝まで勝ち進んでいた俺は、必死だった。全国優勝を目標にしてきただけに、新山相手に負けそうだったとき、強い思いは何倍にも膨らんでいた。でも、その試合の最中に俺を支えてくれる人は、誰もいなかった。応援もなかった。俺は、独りだった。シングルスならコート上で味方がいないのは当たり前だけどな。でも、やっぱり独りだったんだ」
最後のポイント、取られたら負けが決まる直前、目が合ったはずの仲間から向けられた憐れみの眼差しが、今でも鮮明に脳裏に残っている。負けても仕方ない、負けるのは当然だ、頑張ったみたいだがその程度なんだ、俺たちに全国大会優勝なんてできるわけがない、何を一人で夢を見ているんだか。そう伊月は、彼らの目から直感的に読み取った。その瞬間、伊月の三年間が、ずっと独りだったことを悟った。誰も一緒に戦ってくれてはいなかったのだ。適当にして、適当にやって、遊び程度で、やる気など初めから皆無で、共に誓ったはずの目標は立花伊月ただ一人の誓いだった。
誰も隣にはいなかった。誰も、傍にいなかった。
「一緒に歩んできたつもりでいた。一緒に同じ目標に向かって歩んでいたつもりだった。でも、独りだったんだ」
「……それがきっかけで、テニスを辞めたんですね」
口をぎゅっと結ぶようにして力を込めたむつみは、いきなり伊月のグラスを手に取ってビールを注ぎ、豪快に飲み干した。呆気に取られていると、むつみはメラメラと瞳に炎を灯すかのように目を眇めて「飲みましょう!」と空になったグラスを伊月の頬に押し付けた。
「私、そんな立花さんをテニスの道に戻しちゃったんです。その詫びを兼ねて、今日は飲み明かしましょう」
「ここ、二時までの営業だぞ」
「だったら二時まで飲んで、それから近くの公園で飲み明かしましょう! おじさん! ビール瓶二本追加で!」
「あいよ」と大将の威勢のいい声が響く。酒に酔っておかしくなったかと心配した伊月だったが、彼女はどこか怒っている様子で、しかし薄らと目を潤ませていた。何とも不思議な表情に、伊月は戸惑う。すると、彼女は日本酒を升に注ぎ、伊月に差し出した。受け取らずにいると睨まれ、受け取ることにした。




