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夏が終わっても暑さはそう簡単に引き下がってはくれない。ずるずると引きずっているのは伊月も同じことではあるが、どうにかこうにか、誤魔化しながら斗洲高校はテスト期間に入って部活は休止となった。約二週間の休暇ではあるが、酒屋の仕事が休みになるわけではない。せっせと仕事をしながら、時々ぼーっとしている自分に喝を入れる。たまに頑固親父の拳骨が効果抜群であることに気付いて、わざと仕事をさぼることで拳骨を受けるという、他人任せの実に阿保らしい解決策を見いだしたのだが、ここのところ記憶が曖昧になってきている。きっと副作用か、頭のどこかがいかれてしまったのだろうと、この解決策は奇しくも三日後に廃止となった。
それでも少しは楽になったと伊月は感じていた。テニスから離れたことによって得られたものなのか、それとも斗洲高校テニス部の連中と顔を合わせていないからなのか、どちらが正解かどうかはさておき、気が楽になった伊月は久しぶりに一人で飲みに出かけることにした。本当は夏に会った春間と会う約束をしていたのだが、急に出張が入ったということでキャンセル、仕方なく、いわゆる自棄酒である。
午前中に積んでいた本を読み漁り、煙草を吸ってゆったりとベランダから雲を眺めたり、部屋を掃除したり、ある意味有意義な時間を過ごして、夕方にいつもの飲み屋の暖簾をくぐった。顔なじみの大将に挨拶してカウンターに座り、とりあえずビールを瓶で、それとつまみにたこわさを頼む。店内の壁にかけられた商品一覧を眺めて、ビールとたこわさが手元に来たときに軟骨の唐揚げを頼む。しばらくはたこわさだけでビールを楽しむ。酒屋の息子だからというわけではないが、ビールは伊月の舌に合っているのだ。他に日本酒もいけるが、焼酎だけは苦手だった。あのふわっとした香りがどうしても受け付けられず、たまに晩酌に付き合う頑固親父に無理矢理飲まされた翌日に酷い腹痛に襲われた。ある種のトラウマである。以降、基本的に酒はビール、時々日本酒という感じだ。
待っていた軟骨の唐揚げが来て、さて食べようかと思ったときだった。すとん、と隣に誰かが座って来て「おじさん、日本酒!」と声を上げた。その元気溌剌さに耳を思わず塞いだ伊月は、顔をしかめながら隣を見た。見る前からすでに誰かはわかっていたが、隣に座って来たのは仕事帰り、スーツ姿の加賀むつみだった。
「いやあ、まだ暑いですね」
耳元を隠していた髪をそっと指先で上げて耳にかけた彼女に、伊月はムスッとして軟骨に目線を戻した。ここはその仕草にドキッとするところだろうと自分に突っ込みを入れたくなった伊月だが、どうにも、彼女の顔を見るとテニスのことばかりが浮かんでしまう。テニスから離れている時間が楽に思えて、できるだけ顔を見たくなかったのだ。
「そういえば、加賀って何の仕事してんだ?」
「市役所の事務です。九時五時なので土日と放課後のコーチも引き受けやすいんですよ」
「なるほど。だから金曜日は週末の独り晩酌用の日本酒、土日は朝から晩までテニスで独り身の寂しさを紛らわせていると」
「……酔ってます?」
「まだ酔ってない」
「素面でそれって酷くありません?」
「だったら他の席で飲めよ」
嫌味たっぷりで言ったが、それでも彼女は移動することはなかった。運ばれてきた日本酒を受け取り、升に溜まったぶんを飲んで、お猪口を手に取った。ちらりと見てきた彼女の意図がわかった伊月はしばらく無視をしてきたが、空になった自分のグラスにビールを注ごうとしたところ、彼女がさっとビール瓶を掻っ攫った。そして伊月のグラスに注ぐ素振りを見せる。
「何を企んでいるんだ?」
「良いんですか? このままだとこぼれちゃいますよ?」
チッと舌打ちをして仕方なくグラスを手に取り彼女にビールを注いでもらう。そして今度は彼女がお猪口を手に取った。伊月がため息交じりに注いでやると「どうもです」と言ってグイッと飲み干した。その飲みっぷりはやはり豪快だった。暴食の女王は暴飲の女王でもあるようだ。
「何だ、仕事でセクハラかパワハラでも受けたか?」
「自棄酒じゃあありません。一杯目はこうやって飲むのが私の流儀です」
「変な流儀だ」
もう一度注いでやると、今度は軽く口に含むだけに留まり「はあ」と色っぽい声を出した。その声に店内にいた親父どもが反応する。隣に座る伊月に鋭い視線が突き刺さるが、残念ながら彼女は皆が思っているような女性ではない。飯を運べば次から次へと腹に収めていく暴食女なのだ。騙されるな、と思いながら、うっかり伊月も彼女の色っぽい声と微かに香る日本酒の甘い香りにつられて、彼女の横顔を見る。その一瞬、彼女と目が合い、咄嗟に目を逸らすと彼女は「むふふふ」と奇妙な笑い方をして伊月の軟骨の唐揚げを一つつまみ食いした。酔ったのだろうとすぐにわかる彼女の変化に、伊月は面倒臭い奴と飲む羽目になってしまった休日を恨み、同時にドタキャンをした春間に舌打ちをした。
「立花さんも独り身でしょ? 一緒じゃないですか。こうやって一人で飲みに来ているのはあ、私が家で独り酒をしているのと同じですよ?」
「違うだろ。ここには大将もいて、他のお客さんもいるだろ」
「じゃあ、今度から晩酌付き合ってくださいよ。ここと同じようなものですよね?」
「この店の売り上げに貢献したいんだ。昔なじみの店だし、お得意さんだし」
そう言うと、機嫌を良くしたのか、店の大将が店の奥から上物の日本酒を取り出して、伊月とむつみの間にそっと他の客に見えないように置いてきた。お猪口も二つ新しいものを伊月に手渡してきた大将は親指を立て、伊月は申し訳なさそうに頭を下げ、とりあえずむつみの太ももを膝で強く衝く。彼女はすぐに気付いて、いつもの笑みで大将に小さく頭を下げた。
「高そうな日本酒ですね」
「確かに値段は張るがな、この日本酒は大甘口、日本酒度がかなり低いからフルーティーな味がして女性に人気なんだよ」
「詳しいんですね。あ、酒屋さんの息子さんですものね。すみません」
「ま、商売で必要な知識だけは持っているってだけだけどな」
開封して、伊月は先にむつみに飲ませる。優しく、そして程よく甘い香りが鼻こうをくすぐり、自然と表情を綻ばせる。軽く飲んで、すぐにむつみは蕩けたような顔をした。どうやら気に入った様子で、伊月は帰りにボトルキープしておいてやろうと大将にこっそり後で伝えることにする。むつみに自分も注いでもらい、久しぶりに飲んだ甘い日本酒に思わず湯豆腐が食べたくなった伊月は追加注文した。
「良いお酒を飲ませてもらって、今日は幸せです」
「それで、何か俺に用があるんだろ?」
「どうしてわかるんですか?」
「やっぱりそうか」




