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「俺には無理だな。野球部のコーチをしてくれって頼まれても、絶対に無理だよ」

「何でだ? 甲子園に出場したエース投手のくせに」

「技術的な面じゃないさ」言って、会社の同僚だろうか、奥のテーブルから自分を呼ぶ声に春間は手を振って応えた。「だって、辛いじゃん。もう二度と戻れない場所にいる奴らと一緒にいて、どうして平常心を保てるかって話だよ。俺は……あの甲子園のマウンドにはもう立つことができない。イベントで立てたとしても、選手として、高校球児として、立つことはもう二度とできないんだ」

 春間の言いたいことがわかって、伊月は俯いた。

「あの舞台に二度と上がれないんだよ、俺たちは。だからさ、あの舞台に上がるチャンスがある奴らと一緒にいるのは、やっぱり辛いだろ」

 春間が席を立つと、ちょうどよく入屋と明智が戻って来た。二人に笑顔を見せて、それから伊月に「今度、店に遊びに行くよ」と言って、自分のテーブルに戻って行った。

「誰?」と入屋。

「コーチの友達じゃない?」と明智。

 それに対して伊月は一切答えず、二人を見て、それからテーブルで騒ぐ部員たちを見た。春間の言うとおり、彼らは自分らが上がることができない舞台に上がることができる。時間もある。青春を謳歌することができる。あの場所に、あの日に、自分が戻ることができない悔しさが込み上げてきて、伊月は焼いてあった肉が喉を通らなくなっていた。

 悔しさは次第に嫉妬となり、自分が春間と一緒の思いだったことに伊月はようやく気が付いた。入屋や明智たちといることで、自分の中に残る様々な後悔が渦巻き始める。もう叶うことのない願いが交錯し、堪え切れない思いが表情を暗くさせていく。店を出て、部員それぞれが帰途に着く。全員を見送ってから、伊月は学校の駐車場へ向かった。真っ暗な中、鍵を取り出して鍵穴に差し込む。そのとき、背後に人の気配を感じ取り、振り返る。暗くてはっきりとわからなかったが、声を聞いてすぐにそれが入屋司だとわかった。

「……お子様は早く帰れよ」

「まあまあ。ちょっとだけ時間ちょーだいよ、コーチ」

 ごまをするような声で言って、入屋は勝手に喋り出した。

「今日の試合でさ、結構自分の思った通りの試合運びができたと思ったんだよね。でさ、コーチ、俺の試合見て、何か駄目だったところとか、直したほうがいいっていうところとかなかった?」

「……そうだな」

 仕方ないと思いながら、伊月は答える。

「リターンのときのスプリットステップ、ボレーを打つ時のテンポ、サーブを打った後の目線、修正すべきところはたくさんあると思うぞ」

「マジか! じゃあ全部教えて!」

 暗がりでもわかる、入屋の真っ直ぐな瞳が伊月の心を締め付ける。舞台に上がることが許されている彼にアドバイスをして、それで自分に何の得があるのだろうか。見返りは求めずとも、どうして他人を導かなければならないのか。根本的に、どうして自分ができないことができるところに立っている彼に、どうして力を貸す必要性があるのだろう。どうして、どうして。

 自分はこんなところで、何をしているのだろうか。

 もう、あの場所には戻れないというのに、と沸き起こってくる疑問がアドバイスをしていた口を閉ざす。突然黙り込んだ伊月に、入屋は首を傾げた。嫉妬が怒りに変わりそうになった伊月は、逃げるために咄嗟に車のドアを開けた。情けなくとも、これが最善策だった。

「今日は帰れ。遅くなると親御さんに心配をかけてしまう。もしかしたら今後一切、他校との練習試合ができなくなるかもしれんぞ」

「それは普通に困るよ! わかった、じゃあ、明日教えて! や、教えてください」

 ニッと笑って、入屋は近くに停めていた自分の自転車に跨り、勢いよく学校から走り去っていった。ぽつんと一人になって、ようやく自分の愚かさに体中の力が抜けて車にもたれかかった。危なく感情を露わにしそうになってしまった伊月は反省する。大人げない行動は、絶対にしてはいけない。ここで苛々して他人に怒りをぶつけるなど、ましてや子供に怒鳴り散らかすなど、絶対に大人がすることではないのだ。

「ちくしょう……」

 何とも例えようもない感情が腹の底で蠢き、のたうち回っている。そのたびに過去の自分が蘇り、最後の一球が思い起こされる。やはりコーチなど引き受けるべきではなかったのかもしれない。そう思い始めた伊月だったが、入屋の向上心が伊月の手を掴んで離さなかった。もっと強くなりたい、その思いを包み隠さない正直さは、どうにも無下にできない純粋さを隠し持っている。それは、明智も同じだ。クールに振る舞っているが、入屋といい真剣で、やる気に満ち溢れている。ここまで踏み込んでおいて、関わっておいて、今更投げ出すことはできやしない。それでも、立花伊月がかつての自分を取り戻すことはできない。あの場所に戻れない以上、熱意はけして自分の中に戻ってくることはない。失ったものは、過去にしかないのだ。

 車を走らせ、苛々する心をどうにか落ち着かせながら帰宅する。裏口から入るとリビングで食事をしていた母親がめざしを食べながら「はがきが来ていたわよ」と言った。リビングの戸棚に置かれていたはがきを手に取り、二階の自室へ戻る。

「ご飯は?」

「食べてきた」

 食べ放題に行っておきながら、肉の一切れも食べていない伊月だったが、腹はやはり空いていない。便利な腹だと思いながら部屋に入った伊月は、はがきの内容を確認する。高校の同窓会のお知らせという文字を見て、伊月はおもむろに部屋の隅にあるゴミ箱の前に立った。半分に破り、さらにその半分に破り、くしゃくしゃにして、捨てる。無残な姿になったはがきをじっと眺め、それから布団に倒れ込む。

「行って、どうする」

 傷を抉るような場所に行くなど馬鹿げていると伊月は腕で目元を覆った。

 二人の成長に驚き、どこか嬉しく思えている自分がいた。そして、その彼らに嫉妬している自分に気付かされ、過去に戻れない悔しさが、怒りに変わってしまった。何の罪もない入屋に当たってしまうところだった。純粋な心が、真っ直ぐな瞳が、眩しい。自分が持っていなかったものを持っている彼らが、羨ましくて仕方ない。自分が上がれない舞台に上がれる彼らが、どうしても直視できなくなっている。

 春間も同じ思いだったのだろう。悔しい思いをしたからこそ、叶えたい目標があったからこそ、それを成し遂げられなかった思いがずっと尾を引いているのだ。だから、何もできない自分がもどかしくて仕方ないのだ。

 絶対に抗うことのできない現実が恨めしくて、押さえ込んでいる感情が、熱を奪っていくのだ。

「あいつらが頑張る姿を見れば見るほど……胸が苦しい」

 コーチを辞めてしまおうかと伊月は思った。辞めるタイミングは自分で決められる。そういう約束なのだ。ならば、どのタイミングで言うべきなのかどうかが問題だ。これ以上、彼らの熱にあてられて苦しみ悶える日々が続くというのであれば、続けることは不可能だ。

 加賀むつみの携帯番号を表示させた携帯を手に持ったまま、しばらく伊月は考えた。そしてしばらくして頑固親父が「風呂入れ」と半裸で部屋に入ってきた。携帯を閉じた伊月は「わかった」とだけ言って着替えを準備する。風呂に入れば少しは考えもまとまるだろう。そんな甘いことを考えながら、風呂場に向かった。



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