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七話 都市の幽霊・下

 饗庭あえば小夜さよと知り合って、まだ六日ほどしか経っていない。言葉を変えれば、もう六日も経っている。月並みだが、長いようで短い。

 大人になるにつれ人生は引き伸ばされて、希釈されて、一日一日の価値は下がって行く。

 小夜の若い肉体は月の満ち欠けよりも早いスパンで、痣や傷が泡のように生まれては消えている。たまに、傷痕として残り続けるものもある。

 心の傷だってそうだ。





 昨晩、杵原との仕事を終えて眠りについた時、小夜は楽しい思い出に笑顔を浮かべていたのに、朝俺が目を醒ますと隣には居ない。


 二、三日に一度、家に帰るのだ。


 ずっと帰らないでいると、饗庭家は警察に捜索願いを出すかもしれない。だから定期的に家に帰って、事件性がないことをアピールするのが目的だと言う。

 だが、事件性とはなんだ?

 虐待され、新しい痣を拵えてまで、明るみに出したくない。その家庭の闇。

 小夜が隠そうとしながらも、その体に纏わり付かせる翳り。

 いよいよ本格的に解き明かさなければならない。その闇を生み出すに至る過程に迫る。

 暗い暗い穴を覗く。

 家庭の闇。

 過程の闇。


 今、再び暗い影を落とす小夜に問う。

「帰らなくていいんじゃないか?」俺はそのまま思ったことを言う。傷つくために家に帰る…。その行動になんの意味があるのか。

「それでも、帰らなきゃなんだ」

 小夜の目には弱々しい蝋燭の火のような意志が見えた。

「まだ、幸せだった時。時々微笑む母さんの顔が、憎み切れないんだよ

 もしかしたら、私が頑張れば、また幸せな家に戻れるかもしれない」

 その希望を、小夜は捨てることが出来ないでいた。

 あの日、『もうダメなんだ』と、絶望していた小夜を思い出す。

 俺と会う前から、一縷の希望だけを携えて長い夜を過ごしてきた小夜。朝と夜を流転するように、もはや自分の意志でもない血の呪いに支配されていた。


 ――ただ、家族だから。


 頬を打たれた時に、口内を切ったのか、恐る恐る表情を作り、苦労して笑う。

 また笑顔が下手になった。心配いらないよと微笑む顔は、むしろ心配せずにはいられない危うさの中にいた。


「もうダメなんだって、自分で言っただろう。」俺は小夜の肩を抱く。「もう、…ダメなんだよ」

「そ、そうかもしれないけど、いつか昔みたいにさ、……できるって、」小夜の声は狼狽えて、少し上ずった。「ほ、ほら、これでも親父も機嫌がいい時は私の事、殴らないんだ」まだなんとかなるかも。小夜は気丈に振る舞おうと努める。

「ダメだ。」俺は強く抱き締めて、続ける。

 言いたくはない。でも、言わなければならない。

「普通の家庭ってのは、機嫌が悪くったってお前を殴らない」

「………っ!」

 小夜は俺の言葉に反論するための言葉を探した後、どうしようもなくなって、押し黙ってしまった。

 俺の部屋に、急行電車の走行音が響く。そしてそれが遠くに消えると、一層深まった無音が部屋を包んだ。

「親父だって、頑張ってきたんだ。『仕事が上手くいけば、きっと生活が良くなる』って…朝から晩まで働いて、母さんのため、私のために擦り切れて、壊れちゃったんだ。」

 嗚咽。

 小夜は悲しみの濁流の中で、溺れながらも言葉を発する。

「それからは、母さん、が。わ、『私がなんとかするからね』って、それで。そ、れで…」

 それで、次は小夜の母が壊れそうになっている。叔母がまだ亡くなる前は、少ない貯蓄、家事の手伝い、精神的な拠り所があったが、亡くなってしまった今では、家は洗濯物も、使い終わった皿も散乱し、循環することも出来ずに家庭は機能不全に陥った。

「私、幸せに死ねなかったばあちゃんが、悲しくて、報われない親父が悲しくて、優しかった母さんが悲しくて」小夜を抱く肩が、暖かく湿る。涙が流れているのだ。「助かりたい。…助かりたかった。殴られてもなんでもよかった。その先にきっと、報われる日が来るって思ってたんだ」


 小夜は声を押し殺して泣いた。それ以上の言葉を出そうにも、震える喉では言葉にならない。


 遣る瀬ない。

 報われない。

 途方もない。


 もうダメだ。諦めてくれ。俺は言おうとしていた言葉を言えずにいた。あまりにも、可哀想だった。


 ――泣き疲れた小夜をベッドの上に寝かせて、俺は一人、武蔵関公園に向かった。

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