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六話 機械仕掛けの幻想・下

 『龍』の興奮冷めやらぬ三人は、その後もご機嫌な足取りで二件目の居酒屋へ向かって、さらに三件目とハシゴした。

 貝木かいきとの約束通り、全額俺の奢りで。

 気がついた時には饗庭あえばの服代を上回る額を注いでいた。それはまぁ、いい。


 街灯から街灯へふらふらと足を運んで、夜の街を歩いた記憶。断片的に思い出せるが、ひどく酔ってしまったらしく、鮮明な像を結ばない。俺はどうやって帰ってきたのか。

 俺は自室にいる。ベッドの上だ。饗庭も一緒に眠っているが貝木は居ない。昨夜のうちに何があったのかは、とろけた記憶と冷え切った財布の残額で理解したが、貝木は家に帰れただろうか……。

 隣で眠る饗庭を眺める。貝木から買った服の一つだろう。肌を包む柔らかな綿の生地で出来た寝巻きに着替えている。唯一素面だった饗庭が、俺を連れ帰ったのだろう。

 閉じられた瞼に生え揃う長い睫毛が震え、程なくして目を開いた。

「ん…」

 吐息とともに怠い眼差しが俺を見るともなくぼんやりとしている。

「おはよう」と、俺は言う。

 今何時なのかわからないけれど、二人の間に流れる時間は朝だ。

「おは……昨日は大変だったぞ」饗庭は挨拶を返す途中で、昨晩の出来事を思い出したらしい。怒気を孕んだ声になる。ひどく酔っていた昨晩は、やはり饗庭の介抱によって帰宅できたらしい。

「そうか。俺は覚えてないけどな」

「………。」饗庭は一度膨れ顔を作り、そしてあっさりと怒りを忘れる。「尾鳥おとりって、俺って言う人だったか? 自分の事は僕って言ってたのに」

「あ」

 ――気を抜いていた。

「ま、いいか。本当は一人称は俺だぞ。饗庭と最初に会った日から、少し性格を隠してた。」

「なんでさ」

「優しい雰囲気でないと、安心してくれないだろうから」

「あー。そんな気遣いしてたんだ」饗庭はベッドの上で身体を起こす。「なら、この際私のことを名前で呼んでよ。」

 親と同じ苗字、あんまり好きじゃないんだ。と、饗庭…否。小夜さよは言う。

「なんだ、もっと早く言ってくれればよかったのに」

「お互い様だろ」小夜は柔らかく微笑んだ。

 穏やかだ。

 暴力に晒されていない環境で、彼女は健やかな精神状態にある。





 なぜ饗庭小夜を救うのか。

 理由の一つとしては、饗庭の容姿が美しいからだろう。容姿によって態度を変えるのは、世間ではあまりよく思われないが……。

 結局のところ、美しいものは守りたくなるものなのだ。蝶のために蜘蛛を払う。

 言葉にしないだけで、人間は目で見たもので全てを判断する。そして俺も小夜が美しい容姿だから無償の愛情が芽生えるというものだろう。

 言葉遊びはいくらでもできる。放っておけなかったから助けたのは事実だ。だからこそ、自分を厳しく律しなければ、饗庭を本当の意味で救うことはできない。





「さて、今は何時だ?」俺は独りごちて携帯端末を見る。

 午前の九時。『龍』の出現によって生活リズムを狂わされた結果、真人間と同期した。

「俺が活動する時間じゃないな。寝るか」

「もう、そんな生活してないで、外に出かけたらいいのに」

「今から起きてたら、夜に杵原と仕事が出来なくなる」

「むむむ」

 小夜は杵原に会えるとなると、強くは言えない。ベッドに再び寝転んだ。

 俺も隣で目を閉じる。輾転反側てんてんはんそく。隣の小夜のぬくもりと微睡みの気配を感じながら、それでも心には薄暗い雲が覆っているようだった。

 省みる時間だ。

 心配事は意識を巡って浮かんでは消える。その不穏なメリーゴーランドの馬に跨って、延々と揺すられてしまっては、眠ることは出来ない。俺は眠ることを諦めて、じっと自分の心の内に向き合った。

 不安の種、心に巣食う闇を探る。饗庭小夜の家庭。瀬川せがわしのぶの動向。…主にこの二つだ。後は慣れ親しんだ痛み、過去の出来事がちらつくだけ。


 俺は集中して、箱を開けるようにそっと闇を紐解く。

 まずは饗庭家の背景だ。これについてはまだ何も知らない。親から受ける暴力の程度は、小夜の肉体に色濃く残る痕跡を見るだけで窺える。近い内に小夜から事情を深く掘り下げてみた方がいいだろう。

 ――少しずつ精神は冷静になる。意識の内にちらつく煩わしい闇は、こうして正視し、観察し、理解することで解決策が見え、落ち着く。この調子で瀬川忍についても、改めてどうするか考えてみよう。……どちらかと言えば、饗庭家の事情よりも大きく育った不安の種である。


 ――瀬川忍はこう言った。


『叶わなかった初恋を成就させることが、私たちの悲願なの』


 呪文のように、

 縋るように、

 盲信的に、

 言った。


 鈍く反射する病んだ双眸を俺から逸らすことなく、寧ろ覗き込む程に視線を注いで言ったのだ。

 俺と結ばれるのが悲願であると言う。

 夫を殺し、現在の自分の身体を消滅させたその行動。常軌を逸している。

 正気か疑う。いや、疑うまでもなく瀬川忍は狂っている。

 貝木に相談すればよかったか。と、考える。この件は俺がどうこうできるレベルではない。しかし、貝木に話すと言うことは、この殺人事件そのものが明るみになってしまう。……となると貝木には協力は頼めないな。

 可能な限り穏便に済ませたい。

 ……悲願を達成できなかった場合の瀬川忍は、どのような行動を起こすかわからない。あの分身が一度だけの能力とは限らないのだから、俺も貝木も殺されてしまうのは避けたい。


 まずいな。正視しても余計に闇が深まるばかりだ。

 少し別のパースペクティブから物事を考えよう。

 シンプルに、状況を悪化させないようにするための計画。延命治療はどうだろう。


 俺が瀬川忍と結ばれる場合。

 瀬川忍は己の悲願を達成する。消滅して自殺した瀬川忍の希望通り、人生の分岐点に立ち返って答え合わせ。問題は、


 『幸せにできるかどうかじゃなくて、幸せになるの。それが幸せなの。』


 …この言葉だ。夫との人生は選択を誤ったことが原因。もっと良い選択肢があったのだと思うあまり、俺と結ばれることでより良い未来が手に入ると信じている。それが問題なのだ。

 落伍者、逢魔時の欠落者である俺は、まず間違いなく生活水準も平均年収も下回っている。

 確信している。殺された瀬川の夫よりも酷い生き方をしている。

 瀬川忍は、より色濃い絶望を味わって二度死ぬことになる。


 ……ダメだ。俺は瀬川忍と付き合わない方がいい。その場合はどうなる?


 瀬川忍との交際を断り続ける場合、おそらく手段を選ばずに俺を脅しにかかるだろう。彼女は夫を殺している。背水の陣で臨んでいるのだ、とても交渉でどうにかなる相手ではない。………。

 どちらにせよ、俺と瀬川忍は酷い結末になりそうだ。そう結論付けて、考えるのを止めた。





 ただ目を閉じて体を休める。いつからか眠りに入っていたらしい。

 次に目が醒めると仕事の時間が迫っていた。

 小夜は俺を起こすことなく一人で準備を進めている。ドライヤーで髪を乾かす音で俺は目を覚ました。

 吸気と排気を同時に行う手持ちの家電は、耳障りな雑音を生み出す。俺は眉根を寄せて小夜を見ると、手に櫛を持っている。

「…そんな櫛持ってたっけ」

「…あ、おはよう」小夜はちらりと俺を一瞥して、丁寧に髪を梳かした。「この櫛、貝木さんがくれた服と一緒に袋に入ってたんだ」

 俺に向けてひらひらと見せる櫛は半月状で光沢があり、見るからに上等な代物だった。どんな意図があるのかはさておき、貝木のうっかりということはなさそうだ。

 俺は小夜の髪を梳かす姿に少し見惚れていた。

 傷んでほつれていた髪を丁寧に櫛で梳かす。小夜は長年手入れできずにいた髪を苦労して整えていく。見違えるように真っ直ぐに矯正された黒髪は艶が出て、その変化の様が見ていて飽きない。

「…そんなに見るなよ」と小夜。

「すまん。」俺は起き上がりシャワーを浴びることにした。「髪を梳かすのが楽しそうだな」

「気持ちいいよ。おばあちゃんを思い出して、懐かしい」





 時刻は二時。

 東伏見公園の四阿あずまやにいる。

 杵原はあまりご機嫌がよろしくないようだ。

『…それで、『龍』のほうを優先して、僕は一人ぼっちなんだ』

「連絡は入れたろう」俺はため息まじりに弁明する。日程変更はパソコンからメッセージを送ったはずだ。『不死帯:杵原真綸香』にどのようにしてメッセージが届くのかはわからないが、周波数調整員バランサーに支給されたパソコンからは、簡易的なメッセージを送ることが可能なのだ。

『それは届いたけどさ、当日に言われても寂しい!』と抗議する。

「そう言われたら謝るしかない。すまん」

『ヤダ! 心がこもってない!』

 杵原は地団駄を踏んで癇癪を起こすが、浮遊バクテリアでは地面を踏み鳴らすことはできない。

「今日はその分たくさん話そう、な」小夜は調子よく笑顔を見せて杵原の怒りを収める。いつの間にか笑顔にも違和感がなくなったように思う。

『どうせ『龍』についての土産話ばっかりでしょー』

「だって、すごかったんだよ。『龍』の皮膚に魚みたいなさ」

『あーあー。聞こえませんー。…そんなことより、オトリとはどうなのよ。最近なんかあったでしょう?』杵原が小夜に詰め寄る。

「な、なんでそんな」

『ほら、あったんだ。そっち聞きたい』四阿の隅に追い込まれた小夜に、杵原は手を伸ばす。梳かした髪が静電気によって逆立つ。


「小夜には服を買ってやったんだ」俺はフォローするように話に割り込む。

『サヨ?』

 杵原はわかっていながらきき返す。言質を取るためか。

「…アエバさんには服を買ってやったんだ」俺は手遅れながらも言い正す。

『下の名前で呼ぶようになって、挙句小夜ちゃんはお洒落な服を着てますねぇ。髪も梳かしてまぁまぁまぁ…服は囮に買ってもらった?』

 小夜は今夜も貝木から貰ったおろしたての服を着ている。袖や裾の長いパーカーの上に革のジャケットを重ね、ボトムにはレギンス。都会に馴染む派手すぎない年頃の女の子らしい服装だ。

「今まで制服ばかり着てたんだから、いいだろ」

『それは構わないけどさ。……あーもーわかった』杵原はやけくそに空を飛んで俺たちを見下ろして宣言する。『こうなったら僕も『龍』になるんだから』

「できるのか?」俺は杵原を見上げながら言った。

 不死の帯域に存在する彼女は、それこそ無限の時間と、夢幻の可能性を秘めている。『龍』とは都市のイメージの集合体だから、杵原一人で作り上げるイメージは『龍』と呼べるだろうか。

「一人じゃ出来ないかもしれない」

『なら、仲間を集めるよ』

「どうやって?」

『僕みたいに不運な人生のまま死んじゃう子供とかに呼びかけて見たら、なんとかなりそうじゃない?』

 杵原が不死帯になった原因は、昏睡、植物状態の意識をインターネットに接続して延命を図ったことだ。都市に流出した意識が肉体から乖離して、浮遊バクテリアに宿った。

 同じような死に切れない意識を集めたら、確かにできるかもしれない。


「…出来るかもな。」ただ、それは延命中の肉体から意識を連れ去る事になる。それが残された遺族にとって、どのような事になるのかまではわからない。

 それに、延命治療を受けている人ばかり連れ去っては、その治療はもう延命治療とは言えない。

『とにかく、時間はたっぷりあるからね。僕の目標は『龍』になること。決定』

 杵原は気楽に宣言して、空を漂う。





 時刻は四時。まだ夜闇は暗く、風は冷たい。四阿でじっとしているのも辛くなってきた。

「散歩しないか?」俺はコートのポケットに手を差し込んで、肩を震わせながら二人に言う。

『いいよ』と杵原。

「…どこに行くんだ?」と小夜。

「この公園と並んで東伏見神社があるだろ。往復して歩くだけ」

 俺の提案に否定する事もなく、歩き始める。東伏見公園の舗装された道をなぞって神社の方向へ進みながら話す。やはり『龍』の話題は尾を引いて、触った時の感触や、都市に出現した時の驚き、異形の姿。小夜は楽しそうに杵原に伝えていた。


 ――後日。小夜は新たな傷を作って現れた。

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