五話 龍を追う者
「都市を円で囲う巨大な陣。それが所謂山手線なんだけど、その内部は常に浮遊バクテリアが飽和している。環境が整っているからね。
…ほら、囮のところで言うと三つの公園で囲われた三角形。あれと同じ。
それに、山手線は巨大な上に人が多いでしょ? ただでさえキャパシティオーバーなのに、大晦日なんて終電がない。
東京で『龍』が出るのは当然のことなのよ」
貝木は掘り炬燵式の席に座るやいなや、目を輝かせて『龍』について語り始めた。
個室の狭い空間に三人が押し込められた。店は稼ぎ時らしく、薄い壁からも賑やかな酔いどれの諍いが聞こえる。
最初の注文を決めながら、俺は貝木の話に応える。
「だろうな。去年の出現には貝木は居なかったけど…何にする?」
「とりあえず生3つ?」
「僕はジャンディガフ」
「えー」貝木はステロタイプな抗議をする。「初めは生でしょ、そこは」
「わ、私はなんでも」
「じゃあ私と饗庭ちゃんは生ね」
「バカ、饗庭さんは未成年だ。ジンジャーエールとかにしとけよ」
「もう、最初は生ビールがお約束でしょ!」じゃんけんで言えば最初がグーと一緒!ミームよミーム!!
貝木はアルコールを摂取する前からやかましい。俺は無視して店員に生ビールとジャンディガフ、そしてジンジャーエールを注文した。
「ジンジャーエールって初めて聞いた。お酒?」と饗庭。
俺はその疑問に対して内心驚きながら、ジンジャーエールについて軽く説明する。
「いや、ジュースだよ。生姜シロップの炭酸割」
「ジャンディガフも初めて聞いたー。ジュース? ねぇジュース?」
貝木は茶々を入れる。
「お前は知ってるだろ。ビールとジンジャーエール割ったやつ」
「へぇ」饗庭はシャンディガフの知識も手に入れて感心する「尾鳥は生姜好きなの?」
「うぅん、生姜というよりジンジャーエールが好きだな。喉が温まるから、擬似的にアルコールを飲んだ気分になれる」
「そんなのより、『龍』! 一大イベントだよ!!」
貝木は生姜の話をしに来たんじゃないとばかりに会話を遮る。しかし……。
「その…」
……饗庭は控えめに手を挙げていた。俺と貝木は同輩の無遠慮な盛り上がりから少し落ち着いて、目を向ける。
「『龍』って…さっき見た大きな化け物ですよね。あれってなんなんですか? こうして楽しそうにしてるってことは、危ないものじゃないんですよね」と、貝木に向けて質問した。
「…あれ、饗庭ちゃんには説明してないの?」と貝木。俺は具体的なことは秘密にしていたことを伝える。
「にゃるほど。…えっと、『龍』ってのはね、饗庭ちゃん。要は浮遊バクテリアの嵐よ」
ぴっと人差し指を立てて、貝木は得意げに話を始めた。
「饗庭ちゃんはさっき姿を見たと思うけど、巨大な影のように見えたと思う。
それは浮遊バクテリアが溜め込んできた都市を飛び交う数多のイメージが混濁して、混沌としているせい。…いわゆるラジオの砂嵐状態。そこから時間をかけて『龍』は姿を現す。
浮遊バクテリア内のイメージが収束して溶け合って、一つの確立したイメージを投影するわけ。
その姿は毎回ランダムだから、今回はどんな姿になるかわからないけど、要はそれを見て楽しむお祭りみたいなものよ。」
「お祭り…」饗庭は言葉を転がす。表情は少しだけ興奮の色を帯びていた。
「そ。お祭り。真夜中の、見える人にしか見えないお祭り。」
「じゃあ、調整員以外の人も見える人なら見えるんですか?」
「もちろん。饗庭ちゃんのように」貝木はウィンクをした「でも、インターネットを規制されてからはそんな人は滅多に居ないし、見える人はだいたい調整員の道に進むよ。類は友を呼ぶというか、運命の因果というか」
結局、光に集まる羽虫のように導かれるものだと、貝木は言う。深夜に街を徘徊するような落伍者でなければ幽霊とは出会さないし、周波数が合わなければ『龍』の姿を見る機会は訪れない。
さて、三人の認識を共有したところで、各々の飲み物が行き渡る。乾杯をして、ささやかながら宴を始める。
「ぷはーっ! …美味い!!」貝木は旨そうに生ビールを飲み干す。
「上機嫌だな」
「まぁね。『龍』の出現は予想よりも早かったけど、寧ろ三人で見れるのはいいことよ」
フフン。貝木は笑う。蕩けた酔いの眼差しを見る。
「お二人はどんな関係なんですか?」饗庭はジンジャエールの炭酸が昇るグラスを揺らしながら、聞いてきた。
「そうだなぁ、ただの同期だな。…8年くらいか?」
「囮とはもうそんなに一緒か、歳はとりたくないわー」貝木はぼやきながら席に取り付けられたタブレットを操作する。ビールのおかわりと、焼き鳥の盛り合わせを注文する。
「最初は仕事の担当地域が近いから、関わるようになったんだっけな。…そこから三年くらいして、貝木が引っ越しだんだっけ?」
「どっかというと実家に戻った感じかな。弟が事故にあって心配だから、田舎に戻った」
「あれ? 今実家か、一人暮らしって話してなかった?」
「実家に帰ったけど、親とは暮らしてないわ。少し離れた賃貸で弟と二人暮し。」
「弟さんと仲いいんですね」と饗庭。
「普通よ普通。弟が付き合ってる彼女ちゃんも仲良いけど、二人きりにさせてあげない」ひひひ。と貝木は意地悪に笑う。
「弟はいくつ下だっけ?」
「二つ下だから二十三。」
「もう働いてるのか」
「働いてるよ。忙しそうにしてる。」二杯目のビールと焼き鳥の盛り合わせが運ばれる。貝木はそれを受け取って少し物思う気な顔をした。「そうだ。服!」ぱっと明るい顔に変わり、手を打ち鳴らす。ころころと表情が変わる奴だ。
とはいえ、服。
「そうだった、服」俺は思い出す。
貝木は隣の座席に置かれている紙袋を俺に手渡した。
「いくらした?」
「まだわかんないよ。実際に気にいるものを選んで貰わないと。」
「確かに。…んじゃあ、ほら選んで」俺は受け取った紙袋をそのまま饗庭に渡す。
「え? 私?」饗庭は思ってもない話の流れに不意を突かれて驚く。
「お姉さんからのお年玉よ」と貝木はウィンクをした。実際は俺のお年玉みたいなものだが、細かいことは気にしない。二人からのお年玉だ。
「好みじゃない服以外は貰ってくれ。なんなら全部貰ってもいいぞ。」
「そんな、悪いよ」
「遠慮なんてしなくていい。前に言ったろ」
初めて合って1日目、ファミレスでの事。悪人になれ。自分を殺してまで他人を優先する必要はない。饗庭に話したことだ。
その後も饗庭はしおらしくでもでもと繰り返したが、俺は無理矢理全部を渡した。
「尾鳥、」饗庭は俯いて俺を呼んで「あ、…ありがとう」と言った。言葉尻が聞こえないほど小さく、耳は真っ赤に発熱して、困っているとも喜んでいるともつかない曲がりくねった眉と唇が愛らしい。
「ふふ。可愛い」貝木はうっとりと饗庭を眺めてビールを呷った。
「家に置けないなら僕のクローゼットに置いておけばいいからな。」俺は饗庭の肩を一つ叩く。饗庭は嬉しそうに頷いた。
「サイズが合ってるか見たいから、いくつか着てみてくれ」
「う、うん」饗庭は紙袋から上着を取り出す。黒い革のジャケットに袖を通した。
「サイズはどうだ?」
「ぴったりだ…なんでサイズがわかったんだよ?」
「調整員ってのは目が命の仕事だからな。見ればわかる」
なんて冗談を言ってみる。実際は制服のサイズを確認しただけだ。
「そうか、裸見たもんな。」
「え?」貝木は珍しく驚いた顔をした。なんでも訳知り顔な貝木の珍しい表情だ。「二人はどういう関係よ」
「誤解だ。別に変なことはしてない」
「なんとなく一線は越えてないだろうなーって思ってたけど、囮も隅に置けないねぇ」貝木は俺を肘で小突いてニタニタと笑う。
「誤解だって、勘弁してくれ」俺はあんまり強く否定しても曲解されてしまいそうなので、あしらう事にした。焼き鳥の串を一つ手に取って口に運ぶ。饗庭の熱のこもった視線を横目で見て見ぬふりをする。冷たい汗が背中を流れる。饗庭の視線。見間違いだと自分に言い聞かせ、またちらりと確認する。
「な、…なんだよ?」饗庭は何事もないといった様子で俺に言う。
「いや、饗庭さんからも貝木の誤解を解いてくれ」
そう言って、貝木の相手は饗庭に任せる。先程感じた怖気のような寒々しい感覚にはっきりと一人の名前が思い浮かんだことが、どこか気がかりだった。
それは昨夜にあった瀬川忍。紛れもない彼女の名前だった。
❖
およそ二時間程の宴の後、三人は店の外に出る。時刻は十時半。
「いくらだった?」と貝木。
「一万程度だよ」
「服のお金分、奢ってもらおうかと思ったけど、お腹いっぱいだ」
「あといくらだ?」
「服は全部で…、」貝木は自分の財布からレシートを取り出す。「二万と八千円。あと二万五千円分だね」居酒屋が一人当たり三千と考えると残りの差額はまだまだあるようだ。
「この場で現金で返すよ」
「それもいいけど、せっかく『龍』が出現したんだし、今夜は全部奢ってよ」それでも足りない分は別れる時に現金で貰うから。と言って貝木はほろ酔い気分上機嫌で街を歩き出す。俺と饗庭はついて歩く。
「おー。見えてるじゃん」
貝木は駅前を見渡して『龍』を視認した。同じ方角に向かって俺も視線を向ける。そこには液体金属のような流線型の硬質なシルエットが都市のビルの隙間から姿を覗かせた。闇夜を映した黒い艶のある巨躯。その下半身あたりから街のネオンを反射して煌びやかに輝いている。その足下を走る車はぶつかる事もなく『龍』の皮膚に潜っていく。対向車も、何事も無くすり抜けている。まさしく、彼らには何も見えていないのだ。
「不思議だ…」饗庭は恍惚と、しかし興奮に開いた瞳孔でその景色を眺める。「こんなに大きいのに、みんな『龍』が見えないんだ」
「……例えば、量子は観測されることで影響を受ける、らしい」饗庭の呟いた疑問に貝木は答える。
「観測されることで?」
「うん。」貝木は頷いた。そして、あんまり詳しくないけどね。と断ってから続けた。「あらゆるものは、人が見ている時も、見ていない時も変化しないの。炎とか川の流れとか、いろいろなものがそう。人が居る居ないに関係なく、火は灰になるまで燃えるし、川は海にたどり着くまで流れ続ける。
所が、もっともっとミクロな世界、量子って呼ばれるそれは、観測されることで結果が変化するの。」
――ま、よくわからないけど。とにかく、『龍』も同じようなものよ。
貝木は、そんな風に、わかるようなわからないようなことを、わかったようなわからないような言葉で説明した。
「つまり…?」俺は結論を求めて貝木に求める。
「重ねて言うけど、私だってわからないわよ? その上で持論を話してるだけだから、その辺りは理解してよ。」困ったように笑いながら、どこか酩酊の心地よさに身をまかせるように、貝木は話し始める。「さっきの話は観測者問題と言って、観る人が現象に影響を及ぼす事を話しているんだけど、ここからは本当に持論。たらればの話だからね。
観ている人によって影響を受けることがあるなら、『龍』や浮遊バクテリアと呼ばれているそれらは逆さまのことが言えるかもしれない。『観ている人に影響を与える』。つまり『龍』が人を選ぶ側である。…なんて思うのよ。昔から未確認な存在は多種多様に存在していて、観る人には姿を現し、観ない人には姿を見せない。
『龍』はその典型で、観測したい人に影響を与えているのかな。…なんて思うのよ。」
貝木は理論的とは言えない、浪漫科学な解釈を話してくれた。
「同じ夢を見てる…ってわけだ。」俺は駅前の手すりを背凭れにして『龍』を眺める。
「集団ヒステリね」貝木は自嘲して笑う。
「饗庭さんはどうだ? なんとなくわかったか」
「あぁ。観たいと思えば見せてくれる。…なんか深い言葉だな」
「そうか?」
「そうだよ」饗庭は『龍』から目を離さずに言う。「助けてほしいと思えば助けてくれた。尾鳥さんと似てる」
「そうか。…そうだな」俺は饗庭の頭を一つ優しく叩いて納得した。俺が『龍』と同一視されるのはどうかと思うが、悪い気はしない。
願う力というものは、強い。
例えこの『龍』が多数決では存在しないとしても、集団ヒステリの産物だとしても。
願えば叶う。その言葉が饗庭の心に光を灯せるのなら、充分だ。
少しずつ可視化を進める『龍』が、俺たち三人の目に見えるようになってからも、その巨躯はより現実味を帯びて顕現する。質量、空気感、存在。まるで合成写真のようだった『龍』の設置感のない姿も、今では都市の真ん中に屹立した迫力のあるオブジェのように存在していた。もしかしたら今にも『龍』の立っているアスファルトがひび割れて、流線型の滑らかな外殻に干渉しているビルがひしゃげてしまうのではないかと心配したが、そのような心配は杞憂だった。
『龍』は長い首を、幸運にもこちら側、駅前の方へと傾いだ。正面からご尊顔を拝めるだろう。
天体の軌道をなぞるように夜空を滑る『龍』の首は、いくつもの建造物に貫かれながら低空まで降ろされた。
長い長い首を下ろして、俺たちの上に覆い被さる。『龍』の身体は遠くにあるまま、都市に遮られて見えない。
「今回の『龍』は鏡見たいな姿だね」貝木は言いながらその鏡面反射する冴え冴えとした外殻に手を伸ばそうとする。反射して映る俺たちの姿は曲面に沿って引き伸ばされ、歪んで見えた。そして目をこらすと『龍』の外殻を滑る魚影を発見する。それは手を伸ばしていた貝木の指先に向かって泳いでいた。
「おい、貝木」俺がそれを伝えようとするより前に魚影は外殻の表面に出てきた。
眼球を腹に抱えた小魚だった。鮭の稚魚と似た形で、その腹にまん丸な眼球がきょろきょろと世界を見回している。
「おわ、びっくりした。」貝木は手を引っ込めて、そしてまた手を伸ばす。背伸びをしても届くかどうかの距離がある。
小魚はその眼球で貝木を認めると、一つ瞬きをして、白目を向いた。そして白目がそのまま形を変えて貝木の伸ばした腕と鏡写しの腕を生やした。二つの指先が触れる。俺と饗庭はその光景に息を飲んで見守る。
邂逅。
そうだ。
まさしくこれは『龍』との邂逅。
観測と現象が出会った。
「わ、わ! …すごい………。」
子供のような無邪気な反応をする貝木。瞳には『龍』の外殻に反射した光が写り込んで、潤んでいるように見える。
ふと視界の横に気配を感じて、貝木から目を離し、目の前の『龍』の外殻を見ると、ここにも小魚の眼球が二つ。
「お、尾鳥…。」饗庭が俺を呼ぶ。俺は頷いて、手を伸ばしてみせる。それに続くように饗庭も手を伸ばす。
『龍』はおそらく、外殻の表面を滑る眼球によって俺たちを見ている。そしてコミュニケーションを図るように、俺たちの真似をした。
『龍』本体の金属反射とは違う大理石彫刻のようなマテリアルの白目はどろりと解けて腕となる。俺たちの指先と『龍』の指先が触れる。驚いたことに浮遊バクテリアで構成された幽霊特有の触り心地よりも滑らかで、絹のようなそして血の通った仄かな暖かさを感じる。視覚と触覚の情報のズレに新鮮な驚きを覚える。先程の貝木のように。
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夢を見ていた気分だ。時間の感覚さえ曖昧で、いつからそうしていたのかはわからない。
『龍』はいつの間にか都市から消滅して、俺たちは空に手を伸ばす三人として、往来の衆目を集めていた。
「あ、あれ?」饗庭は状況を理解して腕を引っ込めた。「消えた………?」
「『龍』はいつも呆気なく消えちゃうのよ」貝木は名残惜しそうに掌を見つめて饗庭の疑問に答える。
「他の人達には、私たちの奇行が見えていたんですよね」饗庭は顔を赤くした。
「ま、貴重な体験が出来たんだから、それくらいは気にしない気にしない。」
まさに集団ヒステリ。ってね。
貝木は愉快そうに笑った。