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四話 都市の幽霊・中

 壊れ切った体内時計は、眠らぬままに朝を迎えた。部屋には暖房を効かせて、饗庭あえばを布団に寝かせている。


 全身に浴びせられた灯油は、部屋に運ぶなり直ぐにシャワーで洗い流した。今更女の裸に躊躇っている場合では無かったので、衣服を剥がして髪にまでじっとりと重く染み込んだ灯油をすべて洗い落とし、身体を乾かして毛布に包んだ。

 ――予想していた通り、体には内出血で紫に変色した痣が全身についていた。分かっていたのに家に帰らせたことを、少し後悔している。

 意識のない饗庭に服を着せるのは、現実問題無理な話なので、全裸のまま毛布に包んでいる。

 少しだけ体力を取り戻した饗庭は、か細い声で寒い寒いと繰り返し、身体を震えさせ始めた。俺は毛布を隔てて添い寝をする。体温を移しながら、徹夜の看病を行った。

「寒い…寒い………。」饗庭はうわ言のように繰り返し、身体の位置が落ち着かないのか、蠕動を繰り返すと、俺の身体にしがみついた。芯が冷えているらしく、その手は白く冷たい。

 俺は饗庭を抱きしめて熱を送った。


 窓から見える朝の光を眺める。時刻は八時。こんな時間まで起きているのはいつぶりだろう。青空の清々しさを懐かしく思える。

 不意に、携帯端末が振動した。

 バイブレーションによるメッセージの受信通知。俺はしがみつく饗庭の抱擁から右手を抜き出して、携帯端末を掴んだ。

 メッセージを確認する。貝木かいきからだ。


 『お疲れ様です。


  多分囮オトリのタイムテーブル的には

  寝てるかな?


  急だけど情報共有の連絡です。

  『龍』の出現予測が発表されました。

  そこで、詳しい情報については実際に

  会って話すので、飲みに行きましょう。


  今日の20時に新宿駅に集合!

  強制です。時間厳守!』





「げ」メッセージを開封したのは悪手だった。既読通知がもう、貝木の携帯端末に表示されてるだろう。

 直ぐに貝木からメッセージが届いた。


 『見たな』


 …恐ろしい。読まずに眠るべきだった。

 面倒だか強制だと記載されているからには無下にできない。それに『龍』についての情報は是非とも手に入れたい。俺はせめてもの反抗として、メッセージには返信しないでおいた。目覚ましのアラームを十八時に設定して、俺は眠ろうと思う。


 『龍』の事を考えると胸が踊って寝付けないと思ったが、ここ数日の面倒事によって輾転反側てんてんはんそくするであろう俺には程よい薬のようで、明日への活力をくれた。

 隣で眠る饗庭も落ち着いて、血色がよくなった。目が覚めたら饗庭も新宿へ連れて行こう。饗庭にも『龍』の事を話そう。きっと目を輝かせてくれること間違いない。…少しでも生きていたいと思える世界を見せてやりたい。そんな庇護とも慈愛とも言えない気持ちがある。

 無償の愛情、か。





 身体を揺すられているのを、薄膜を隔てた向こう側の意識によって感覚する。

 眠りの中にいることを自覚すると、引き剥がされるように意識は闇の中から覚醒する。目の前には俺の服を着た饗庭が、俺の身体を揺すっている。視界からの情報を得た脳は、次に耳をつんざくアラームを感知した。

 そうだ。『龍』について話すために、今日は新宿に行かなくては。

「おい、…なんか目覚まし鳴ってるけど、起きなくていいのか?」

「いや、…起きなきゃならん…。」脳は働いているのだが、体を動かすのが億劫だ。こうしていつまでも饗庭に揺すられていると、かえって心地よく二度目の睡眠に入りそうだ。「饗庭、体は平気か?」

「おかげ、さまで…。」饗庭の顔が赤くなる。「昨日の夜はあまり記憶が無くて、灯油を浴びてすごく寒かったのは覚えてるけど、尾鳥おとりを探したきり、会えたかどうか思い出せない………。その、私が起きた時、裸だったのって…」

 俺は昨日のことを思い出して、意識がよりクリアになる。俺の服を借りている饗庭は、顔を赤くしていた。

「何もしてないぞ。…昨日は僕の目の前で倒れたんだ。灯油が気化するせいでかなり体温を奪われていて…、

 とにかく、灯油を洗い落とすために服を脱がせた。あとは温めるために添い寝した。裸にしたのは悪かったが、命には変えられん、許してくれ」

「そ、そうだよな。…助けてくれてありがとう。」

「それより、先にシャワーを浴びて、適当に出かける準備をしてくれ、」俺は携帯端末を確認する。メッセージが届いていた。「八時に新宿に用事がある」

「仕事?」

「ちょっといい仕事」


 饗庭は素直に出かける準備のためにバスルームに消えた。俺は携帯端末のメッセージを確認する。予想通り貝木からだ。


 『飲みの店は鶏肉と牛肉どっちがいい?』


 …ビーフ・オア・チキンとは、相変わらず能天気な奴だ。俺は鶏肉とだけ文字を打ち込み、返信する。直ぐに開封記録が付いて既読になる。――そもそも貝木本人はいつ寝ているんだろうか。このメッセージも受信時刻は十二時ということは、相当な早起きなのか。

 驚異的なスピードで貝木からメッセージが届いた。


 『おっけ』


 ともかく、俺も出かける準備をしなければ。

 覚醒した身体を起き上がらせて、粘ついた口内を洗浄すべく、洗面台に向かう。バスルームに取り付けた洗濯機に掛けられた灯油に濡れた衣服。…昨日から放置していたが、これはもう捨ててしまおう。そんなことを考えながら、歯ブラシを口に咥えて、ベッドに腰掛ける。歯を磨きながら机のパソコンを立ち上げる。杵原に伝言を送るためだ。

 型落ちしたパソコンは時間をかけて立ち上がる。俺に似て寝起きは大分ローギアだ。俺は歯をせわしなく磨きながら、パソコンが起動するまでに饗庭の服を見繕う。男物だが新品のシャツがある。それとネイビーのダッフルコート。これも男者だが、しょうがない。というか、饗庭の服でも買ってやるべきだろうか。…ともかく、次はボトムスだが、持ち合わせがない。チノパンツならいくつかあるが、男装が過ぎるか。

「おーい。饗庭」俺はシャワーを浴びている饗庭を擦りガラスのドアを挟んで呼びかける。

 ハンドルを捻って湯を止める音がした。

「わ、何?」

「自分の服とか、持ってきてないか? 僕の服が足りなくて」

「制服があるから、私の服は気にしないで」

「おぉ、制服があったか」

 …やっぱり、服は買ってやろう。今まで気にしなかったが、饗庭は制服以外の服を持ってないとなると俺も困る。いや、それならちょうどいい奴がいた。

 携帯端末を開いてメッセージを打ち込む。貝木は世間体を気にして表面上では服屋でも働いているという。話すと長くなるが女物の服をいくつか持ってきてくれないか。という旨のメッセージを送る。例によって返信は早い。


 『女装?』

 …いや、違う。

 『ならサイズ教えてよ』


 確かに。俺はハンガーにかけてある饗庭の制服を見る。タグにはMと表記されているが、それだけで正確なサイズ感が伝わるのかわからないので、タグを撮影してメッセージに添付した。


 『胸大きい』

 ――そういえば、そうかも。

 『好きな色とか、指定はないなら、適当に持ってくよ』

 ――お願いします。

 『かまわんよ』


 胸の大小は確かに気にしてなかったが、それこそ添い寝した時は、強かに主張していた。

 ちょうどバスルームから饗庭が出てきた。バスタオルで隠しているが、腕に抱えて持ち上げられた胸は、改めて見れば確かに、大きい。

「…なんでそんなに見るんだよ」饗庭は俺を冷ややかに睨んでいた。

「…いや、服を用意しようとしたら、サイズが分からなくて」

「気にしなくていいったら!」そう言って饗庭は俺を洗面台押し込んだ。俺は咥えていた歯ブラシを片付けるとバスルームに入った。

「おっと」杵原に伝言を送り忘れていたことを思い出す。

 杵原への伝言はともかく、パソコンを触られては困るので、俺はバスルームから戻り饗庭に伝える。

「そうだ、饗庭。パソコンは弄るな…」

 絶句。

 というより時間が凍る。まさに今目の前で、饗庭がブラジャーを装着する手前だった。

「あ、あぶ…、危な…。」俺はうわ言のように呟く。饗庭の平手打ちを食らう前に鼻から血の匂いがした。

「見んなってば!!」頬に爆裂。饗庭の大きくしなる右手が俺の脳を揺らす。その後に浴びたシャワーでは浴槽が朱く染まり、なかなか血は止まらなかった。


 そしてバスルームから出て、出かける準備もあらかた終わった俺は、パソコンの前で杵原に伝言を送るためにキーボードを叩く。内容は単純に、『今日来れないので、1日ずらして明日行く』。それだけである。本来の予定なら、隔日で東伏見公園に赴いて、杵原の孤独を緩和させる。つまり幽霊の話し相手をするはずなのだが、『龍』の出現が予測された今、杵原には我慢してもらうほかない。


「…今日は杵原さんに合わないのか」後ろで未だ眉を吊り上げて不機嫌そうな饗庭が言う。裸を二度も見られてしまったことが不服なのだろう。本当ならパソコンや携帯端末の内容は第三者には機密情報なのだが、破廉恥な失態をしてしまった手前、偉そうに注意するのは憚られる。

「残念だが、杵原と会うのは明日にずらす。…でも、これからイベントがあるんだよ」

「イベント??」

 饗庭の半音上がった疑問符の言葉に頷く。


 イベント。

 逢魔時の欠落者だけが参加する幻想。あえて斜に構えた言い方をするのなら、集団ヒステリ。

「僕たちはこれから『龍』を追う」


 外出の準備を済ませて部屋を出ると、俺と饗庭は電車に乗り込んだ。西武新宿線を東に上り、片道およそ三十分。西武新宿駅に向かう。

 そういえば、車輌の景色も歴史的には大きな変化があったのだそうな。二十一世紀末、例の拡張現実災害が起こるまでは、人は一人に一つ、電子頭脳を肌身離さず持って生きていたと言う。今ではインターネットは大きく制限され、使える機能は電話、メッセージ、天気予報、ニュース。これだけだ。個人が匿名で情報を発信することは全面規制され、個人が個人とネットを介して繋がることも規制された。それにより、暇を埋めるためのツールとしての輝きを失い、別の携帯ゲーム器、書籍や雑誌が再び光を浴びることとなった。

 人間同士の会話は未だ隔絶的な雰囲気があるが、俺よりも当時の歴史を生きてきた人間に言わせれば、『薬物依存から抜け出すような感覚だった』らしい。それは本人も、本人の周りの人間の姿を見ても同じ感想だったらしい。


「尾鳥の携帯は、ネットに繋がってるの?」

 小さく、人の耳は聞こえない密やかな声で饗庭は聞いてきた。おそらく俺が車輌内でもずっと携帯端末に報告書を作成しているから、ネットに接続されていると踏んだのだろう。

「…繋がってないよ。」

 ――嘘である。

 厳なレヴェルの機密情報として扱われているが、周波数調整員バランサーに支給されている携帯端末は全て納税者と同じ権限を持ってネットに接続されているのだ。

 少し気を緩めていたかもしれない。これからは饗庭の前では携帯端末やパソコンを見せびらかすような行いが無いようにしないと。

「報告書とか、いろいろと書き留めてるだけさ」俺はわざと車輌の人間にも聞こえる声で、かつ、露骨すぎない声で、ネット接続されているわけでは無いと、嘘をついた。甘い蜜…というわけでは無いが、インターネットに接続できる権利なんて、自慢げに教えては妬み嫉みを買うことになる。

「…それより、西武新宿に着くぞ」





 西武新宿線は文字通り西武新宿に着く路線だ。電車から降りた俺たちは、少し離れた新宿駅へ徒歩で向かう。いつの時代、いつの時間でもそうだが、新宿という場所は常にキャパシティオーバーな人口密度でごみごみとしている。あまり得意な街では無い。

 俺が人混みを泳ぐようにかいくぐって歩くと、すぐに饗庭と離れてしまった。十メートルほど後方でネイビーのダッフルコートを着ている饗庭を発見した。

「尾鳥、もっとゆっくり」俺以上に人混みに慣れていないらしい饗庭は顔を青くしてお願いしてきた。

「思ったより約束の時間まで余裕がない。…その、手を繋ぐのは難しいか?」

「いや、…へ、平気。」饗庭はそう言いながら一度躊躇って、手を繋いだ。「それより誰かと待ち合わせなのか?」

「そうだ」俺は頷く「例によって変人だが、優秀な同期と会う」

「それって私が来ていいの?」

「特別だ。一応、助手という立ち位置にしたから、話は合わせてくれ」

「えー。」

 そんな話をしながら、待ち合わせ場所の新宿駅。しかし、どこの出入り口かはわからない。新宿駅南口、新南口、東南口、東口、中央東口、西口、中央西口…と、正気とは思えない改札口が存在している。ちなみに今の俺たちは中央東口にいる。

 三が日も終わる今日は、駅の往来も恐ろしい。夥しい人の波に目眩がするようだ。

「お、いたいた。囮」

「!」

 後ろから声をかけられて振り向く。貝木だ。手には大きな紙袋を提げている。おそらくは饗庭のために頼んだ服だ。

「明けましておめでとう。…どこの改札口かは決めてなかったけど、運がいいね」

 貝木は腰まで届く長い髪を鮮やかな赤色に染色して、記憶の中のイメージよりも派手さが増していた。

「明けましておめでとう。相変わらずだな、貝木」

「わかりきったことを聞きなさんな。…で、彼女がやんごとない理由で助手になった女の子ね」貝木は饗庭を舐め回すように見る。

「派手な見た目で絡んでくるなよ。警戒されてるぞ」

 饗庭は俺の後ろに隠れるようにして、貝木と距離をとっている。

「初めまして。私は貝木 もみじ。あなたの名前は何ですか?」

饗庭小夜さよ…です」恐る恐るというような、それは動物的本能なのか。貝木の内にある得体の知れないものを感じているのだろうか。饗庭は人見知りと一言で片付けられない程の警戒をしている。しかし、饗庭の視線は貝木のさらにその向こう。饗庭の目と貝木の頭を直線で結んだ線の先、斜め上の都市の空を見ているような…。

「………。」貝木は指を顎に当てて考えている。「饗庭ちゃんには派手に見えるのかねぇ」

「服装の話か? 誰が見たって派手だと思うが。」

 貝木の言葉を軽口と受け取り、俺も軽口で返す。

 ただでさえ異様な人間なんだから、見た目だけでもカムフラージュしてもらいたいものだ。

「…さ、饗庭さん。」俺は饗庭の方を向いて、「貝木はこんな見た目だけど、悪いやつじゃないぞ」と、ありきたりな弁明を図る。

「じゃなくて、…そうじゃなくて、その、後ろに…」

 饗庭は指先で指し示す。指先はやはり貝木の後ろ。ビルの立ち並ぶ都市の空は電光掲示板や店の看板で絢爛豪華で暴力的な光で埋め尽くされていた。

 いつもの都市の空である。

「後ろってどこだよ?」

「見えてないんですか?」と饗庭は共有できない恐怖を溜め込んで、不安そうな顔をする。

「饗庭ちゃんはもう『見えてる』んだね。怖がらなくていいよ。今夜はまさにそいつが目当てなんだけどね」貝木は全て理解しているような態度。

 ……待てよ。

 貝木の言葉から察するに、饗庭の指差すところに、もう『龍』が姿を現そうとしているのか?

「変だな。僕には見えない」どれだけ目を凝らしても、『龍』を視認することができない。

「嘘!? あんなに大っきいのに」と饗庭。

「まぁ、まぁ。時間はたっぷりあるから、とりあえず飲みまひょー」貝木は呑気にそう言って、いるはずの『龍』に背を向けたまま歩き始めた。俺は依然として見ることができないことに微かに歯がゆさを感じながらも、貝木について歩く。

「なんで俺には見えないんだ?」

「適正というか、相性がいいんでしょ。

 饗庭ちゃんは『龍』と相性がいい。」貝木が言うにはそうらしい。そして、「ちなみに、私もまだ見えてないよん」と気楽に言った。


 都市上空に少しずつ可視化を始める巨大な浮遊バクテリア群…『龍』。

 腹が減ってはなんとやら。俺たちはビルの中にある居酒屋に入った。

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