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三話 告白/酷薄・上

 瀬川せがわ しのぶ

 俺が小中高と学生時代を共にした同輩。女性。一度として同窓会に出席したことはなかったが、噂では結婚したと聞いている。俺の、ついぞ叶わぬまま潰えた初恋の相手である。

 そして、今目の前に対面している人間の名前である。

「………。」

「………。」

 互いに何も言わない。武蔵関公園の灯に照らされた顔から名前を思い出したばかりだ。おそらく瀬川忍も俺が誰かは理解しているのだろう。

 饗庭あえばは二日に一度家に帰ると言った通り、今夜はいない。新しい傷や痣を、その身体に付けられているだろうことは心配であったが、俺の今の状況を思えば、もしかしたらまだ幸運かもしれない。

 俺は生唾を飲み込んで、努めて落ち着いて話しかける。

「とりあえず、包丁を置いてくれないか。…瀬川、だよね」

 ブランコに座る俺の前。瀬川はおよそ3メートル先に立って微動だにしない。どんな時を過ごしたのか、雰囲気は荒んでいて、記憶の中の瑞々しい少女は、上から黒く塗りつぶされるようにして、禍々しい女になった。

「久しぶりね」瀬川は言う。右手に持った包丁は黒い液体で濡れていた。明るい所で見ればその液体はきっと赤いだろうことはもはや確信していた。

「そうだな、久しぶり。何年ぶりだろうな」

「5年くらいね。成人式で見かけたわ」

 見かけた。という。俺の記憶にも、会話した記憶はない。会場で俺を目撃しただけなのだろう。

「…困ったな。俺はどうしたらいい?」

 俺は取り繕うのをやめて、素直に降参した。瀬川の目的がわからない。

「別に、何もしなくていいわよ」

「………。」

 俺はブランコに座ったまま、瀬川を見つめてみた。目の前の瀬川はもうずっと動かない。生気の無い、それこそ幽霊のように。

「とりあえず包丁捨ててきてよ。」

 キィ。と。隣のブランコに人がいる。

「!?」

 俺は驚いてそのブランコに座る声の主を見る。

「そう、5年ぶりね。尾鳥おとりくん」

 もう一人の瀬川だ。いや、どういうことだ?

 驚いて声も出ない。先ほどまで目の前に立っていた瀬川は、老婆のように背中を曲げ、そのまま武蔵関公園の池に包丁を落とした。水音が一つ。池の底に沈んだ。

「……おい、どういうことだ?」

 俺は説明を求めた。隣のブランコに乗って揺れる瀬川は、若々しい。そして包丁を捨てた一番目の瀬川はみるみるうちに老婆のような姿へ変貌して、ついには錆のような黒い皮膚を風に晒して崩壊して消えた。

 後にはコートと靴が脱ぎ捨てられたようにあるのみだ。

 とても、人の成せる技では無い。

「どうもこうもないわ。全部幽霊の仕業。」それより、昔話でもしましょうよ。と、瀬川は隣で微笑んだ。





 遠くで硬貨が飲み込まれる音がする。その後に籠った落下する音。

「あなたコーヒー飲めたっけ」瀬川は缶コーヒーを二つ、持ってくる。一つは僕に差し出された。

「飲めないことはないよ」

「そう、よかった」

 瀬川は缶コーヒーを開けると一口飲み込んだ。飲みなれたもののように見える。

「尾鳥くんが周波数調整員バランサーだって聞いてね、前々から話したかったのよ」

「俺に会うためだけに、こんな余興を?」

 消えた老婆は何の手品か、今では包丁が本物なのかさえわからない。

「そんな訳、今日、夫を殺しちゃったのよ」

 疲れた顔で言って、瀬川は再びコーヒーを啜った。

「そうか」俺は、瀬川の殺人の告白をどこか夢の中のような心地で受け止めていた。「お前はそんな浮かれた女じゃなかった」

「あら、覚えてるのね」

「なぁ、何があったんだ?」瀬川が自分の夫を殺めた経緯、さらには消えた老婆。そしてその老婆が瀬川と同じ容姿だった事。

 俺の特異体質は、今夜は特に困ったものを連れてきた。おそらく俺には手にあまるものだろう。随分温くなった缶コーヒーを啜り、怠くなった頭にカフェインを送り込んだ。


「さて、どこから話そうかしらね。」瀬川は隣でブランコを揺らしながら考えている。そして続けた。「いろいろ複雑に絡み合ってるから、やっぱり時系列で、順を追って話さないといけないわ」

「いいよ。それで」

 長くなるだろうことはわかっている。俺は瀬川の話を聞いた。




 

 大学を卒業して、当時付き合っていた彼氏と結婚した。『その内子供も作ろうか』なんて笑う夫は精力的に働いてくれていたし、私も夫を支える為に献身した。慎ましやかな暮らしの中で、幸先のいい結婚生活。

 …ずっと続くと夢見ていた生活に陰り。


 子宮頸癌の発見。それは夫の未来設計に暗い影を落とした。表面上ではいつもの笑顔でも、心は遠くに感じた。そしてその影は間違いなく闇として存在し、幸せだった日常に侵食し始めた。


 ――これが五年間の出来事。そしてもう一人の私について。


 『それ』がいつから存在したのかはわからない。けれど、少なくとも出会った日のことは覚えている。忘れもしない。私が癌を発見して数ヶ月。通院による闘病の日々に疲れたある日。

 その日は大学時代からの友人と飲みに行った帰りで、夜の街を歩いていた。

 そこで夫の姿を見つける。声をかけようかと思ったが私は躊躇った。おかしい。今日は仕事で夜遅くなると言っていたのを思い出す。隣にいる親しげな女性を見て、私は呆然と立ち尽くす。

 そのまま歓楽街に二人が消えるのを見ることしかできなかった。

 何を思ったのか、私はその光景に気をやられたような、遅れてきた酩酊のような眩暈に導かれるように、昔通っていた大学へふらふらと歩き始めた。当時の通学路をなぞりながら一歩、また一歩と足を動かすと、奇妙なことに自分の青春が鮮明に蘇る。……いや、それは一種の走馬灯と言ってもいい。色鮮やかに思い出す夫との交際期間は次々と押し寄せる記憶と入れ替わるように再び色褪せて消えてゆく。そして薄れた意識で確信していた。それらの記憶は私の中から分離して、もう思い出せることはないのだと。

 大学の中に入る。遅い時間だが、誰かがまだ校内にいるのだろう。門は開いていて簡単に進入することができた。講堂下のピロティで立ち止まる。そこは当時私がよく利用していた憩いの場だった。

 そしてそこに私はいた。

 もう一人の私。溌剌とした私。

 幸せの絶頂の私が、私の前に存在していた。





「…それから私は、やり直すことにしたのよ」

 瀬川は五年間の出来事を語った後で、そう言った。

「どうやって?」

「その時の私たちも、五年間の出来事を共有して、語り合って、理解し合った。そして、私じゃない方の私が、決断したの『あなたはまだ癌に脅かされていない。私は夫と決着をつけるから、あなたは今からでもやり直して欲しいの。』って」

「それは…、」俺は直ぐに確信した。「つまり、今目の前にいるお前は、五年前の瀬川だな? そして、さっきまで包丁を持っていたのは…」

「そうよ」瀬川はまっすぐに俺を見つめた。「今までの人生を生きてきた本当の瀬川はさっき死んでしまったわ」


 つい先程、たった今目の前で消滅した。


「そして……お前は幸せの絶頂にいた当時の記憶を振り絞って構成された、幻の瀬川だな。」

「なんでこうなったのかは、私は門外漢だからわからないけど。それで正解よ。…そして私があなたに会いに来た理由もわかるかしら?」

 瀬川はブランコから立ち上がり、地面に打ち捨てられたコートとパンプスを回収する。その後ろ姿を眺めながら、考える。

 思考の隅では不謹慎な事に、学生時代の恋心を思い出している。砂埃をはたき落として、腕に引っ掛ける姿を見つめながら、俺は答える。

「それは、俺が周波数調整員だから…2つに分離した原因とか、情報を………」

「ちがうでしょ。」

 瀬川は俺の前に立つ。視線は真剣そのもので、俺は困惑するしかない。瀬川が何を言おうとしているのかは理解している。

「決着はついた。私はやり直すの」

「俺の意志は尊重されないのか?」

「昔からの念願が叶うのよ?」

 念願と言うには風化した記憶だ。瀬川への好意は長い時間の中で埋み火となっており、強い想いを抱いていない。

「私もね、夫と出会う前までは、あなたのこと好きだったわ」

 畳み掛ける瀬川の言葉。白い手が俺の顎に触れて、そっと持ち上げる。瀬川と視線を合わせると、瀬川は優しく微笑んだ。昔の俺ならこれ以上ないほど嬉しいことだろうに。今の俺にはその劇薬に対して免疫がついたと思われる。

「『私も』ということは、俺がお前のことを好きだったこと、バレてるんだな。」

「今は好きではない事も。わかってるわ」瀬川はそれでも俺の顔に手を沿わせて、逃がそうとはしない。「再燃してくれないかしら?」


 今目の前にいる瀬川は、大学時代の、つまり5歳若返った姿だ。夫との交際は精神的にも身体的にも無かったことにされて、痕跡一つない。5年の月日を遡行して若返った瀬川に、初恋を再燃するのは容易だ。先程消滅した一人目の瀬川の悲願でもある人生のやり直しに対して、協力してもいいのではないだろうか。

 ――だが、しかし。


「魅力的な話だけど、俺がお前を幸せにできるとは思えない」

「叶わなかった初恋を成就させることが、私たちの悲願なの」幸せにできるかどうかじゃなくて、幸せになるの。それが幸せなの。

 瀬川は呪文のように一息に告げる。


 瀬川の悲願だからこそ、命を賭してまで願ったからこそ、俺は軽い気持ちでは答えられない。それに、今目の前にいる瀬川はまともとは思えない。

「考えさせてくれ」俺は一言だけ返して、瀬川の手をそっと取り払う。

 問題の先延ばしはあまり褒められたものではないが、結論を急いではいけない。少なくとも瀬川は人を一人殺害しているのだ。別人のように姿を変え、証拠を消して、捕まらないとしても、瀬川の内にある狂気には細心の注意を払う必要がある。

「…そう。考えてくれるのね」

「あぁ」

「それじゃあ今夜はお暇するわ。」瀬川は俺から手を離し公園の入り口を見る。「それに、あなたは忙しそうだし」

 瀬川の視線の先に目を向けると、覚束ない足取りの饗庭が立っていた。

 ずぶ濡れで、様子がおかしい。親に虐待されたのだ!


「おい…! 大丈夫か!!」

 慌てて駆け寄ると饗庭は緊張が解けたらしく、倒れこんだ。俺はなんとか抱きとめて、饗庭の体を揺する。服がじっとりと濡れていて、鼻に刺さる異臭に気が付いた。灯油の臭いだ。冬の外気にさらされて、饗庭の肉体からは熱が奪われていた。饗庭は震える体力すら残っておらず、気絶に近い形で意識を失っていた。


 瀬川はいつの間にか公園から消えていた。

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