一話 都市の幽霊・上
新年の街並みは灯りがぽつりぽつりと点いていて、察するに夜通しで起きている人達がその部屋に居るのだろう。
俺は武蔵関公園の片隅、池を眺められるベンチに腰掛け、少しずつ白んでいく空の色を眺めていた。夜闇に溶け出した眠りの中にある人の意識が街に拡散されて夢を見ている。それが朝の光に反応して、自身の棲家に戻り、狂いなく再構築されていく。後には清廉な朝靄と、電車の走行音。そして誰かの足音。
木々が自然のままに生える薄暗い公園、その足音は僕に向かって来ている。何か用事があるのか、あるいは俺の存在に気付いていないのか。ともかく、俺は足音に振り向いた。
「っ……」
短く声を漏らして警戒している目の前の人は年端もいかない女で、かといって少女と言うには纏う雰囲気は陰鬱としていて、新年を迎えた人のイメージ像からは離れすぎていた。とても浮いている。というよりは沈んでいると言ったほうが、正しいのかもしれない。
その彼女の目は鈍く街灯の光を反射し、臆病さからくる攻撃的な表情は猫のようで、浮かれた世界とは無縁な意思を湛えている。着ているものは黒いセーラー制服で、おそらく学校指定のものだろうが、夜明けに、そもそも祝日に見るものではなく、全体の印象として喪服のような意味合いを含んでいるように思えた。
「……おはよう、ございます」俺は沈黙を払うためにそう言った。処世術じみた新年の挨拶は、先の印象から憚られた。
彼女は視線をこちらには向けずに、挨拶を返した。
「……どうも」
俺に用があったわけではないらしい彼女が、ならば何故ここに現れたのかについて、俺は少なからずの関心があった。というのもこの場所は公共の場でありながら、深夜から夜明けにかけての時間に限り、俺の貸し切りと言っても良い。大晦日や元日とは関係なく、連日連夜僕はここに通っているのだ。もしかすると彼女は昼間にこの場所を訪れ、お気に入りの場所としている人で、年の瀬をここで迎えようと訪れたのか。再び沈黙が生じるより前に俺は聞いてみる事にした。
「ここにはよく来るんですか?」
「いんや、」彼女は少し鼻をすすり、短く答えた。
「……気が向いて、散歩とか?」
「……いいえ、」
「……」
……ふむ。会話をする気分ではないみたいだ。俺は少し肩を落として、沈黙に包まれることに抗うのをやめた。遠くでバイクのエンジン音がけたたましく鳴り響く。若者が浮かれているのだろうその音は、曖昧な方角から現れたのちに曖昧な方角へと消えて行った。
池の水面が揺らめく。街灯を反射する池の水面はタールのような黒い液体のように見えた。
「家」
「?」いつの間にか隣のベンチに座っている彼女は呟いた。『イエ』そのイントネーションは否定の意味ではなく建物を指す語感である。「家、がどうしたの?」俺は子供に向かって話すような優しさで会話を促してみた。彼女は少し惚けたような顔で池を眺めたまま続けた。
「家がもうダメなんだ。こんなこと他人に話すことじゃないけど」
「ダメ、とは?」
「……家庭的ないろいろ、もうどうしようもないんだよ」
「どうしようもない……」
諦観の心理特有の情報量の不足した言葉に、俺は手のつけようもない。きっと具体的な事象を話されても、それこそどうしようもないことには変わらないだろうが、それとは別に好奇心は満たされず。ちらりと彼女を見やると、変わらず池を眺めていた。
「もしかして、家出とか」
「閉め出された。今日はここで野宿でもしようかと思ってさ」
「それは、危険じゃない? 変な人に連れ去られたりしたら」
「心配される? そんなことないよ」
彼女は俺の言葉に被せて否定した。心配してくれる親はいないということを意味していた。
不審者、誘拐、殺人。これらとは無縁なこの治安の良い地域、それでも目の前の彼女は見るに堪えないというか、危うい。
「なら、僕が連れ去っても問題ない訳だ」
「は――」
彼女は俺の方を向いて驚いている。不安と怒りに曲がりくねった眉の形は、張り付いた癖か、おそらく俺に誘拐されるかもしれないという恐怖か。
「なんてね。不安なら無理に連れては行かない。けれども、もし屋根のある所で過ごしたいなら僕の部屋に匿う事が出来る」
「……見返りは?」
「しない」俺は彼女の目を見て即答する「無償の愛という奴だと思ってくれていい」
この御時世では滅多に聞かなくなったな。
「……信じたわけじゃないけど、外よりマシかな」
「もちろん。こう見えて僕は人助けが仕事みたいなものだから、安心してくれていい」
武蔵関公園の遊歩道を歩き、俺は家に案内する。空が明るくなって、時刻は6時に迫っていた。俺の仕事を切り上げるにも丁度良かった。他の人に少女を連れて歩く姿を見られる事もない。年始の今は、外に出ようと思う人はいないだろう。
一つ誤解がないように明記するなら、俺は本当に彼女に何かをするつもりはない。夜に活動する俺にはよくあることなのだ。こういう厄介事は。
歩き始めて5分もかからない所で、東伏見駅を通り過ぎ、自宅に着く。
「さ、上がって」
「……お邪魔します」
ベッドと小さな本棚、机にはパソコンが一つ。散らかる余地のない部屋なのは、こうして誰かを招き入れることも少なくはないからだ。
「……」惚けている表情で部屋を眺める彼女。俺はその制服から覗く脚に幾つかの痣があるのに気付いた。
「傷」彼女は呟く。
「え?」
「あんまり見るなよ、傷」
「ごめん」
「……いや、宿のお礼にこれから見せることになるのか」彼女は俺に背を向けたまま、俺の正面に立って「私の家庭がもうダメな証明」と言ってセーラー服に手をかけた。
彼女は誤解している。俺が対価として肉体を求めていると思っているのか、その傷だらけの身体を露わにする事で男の欲望を削ごうとしているのだろうか。ともかく、彼女はセーラー服を脱ぎ始めた。
「そうじゃないよ……!」俺は彼女の手を掴む。「傷を見たのは確かだけど、服を脱ぐ事はないよ」
「……じゃあ、私はどうしたらいい?」
「何もしなくていいから、とにかく座って」
そう言って彼女を落ち着かせると俺も側に腰を下ろした。
彼女は震える身体を抱きしめるように体育座りをしている。警戒を解くべきか悩みながら、睡魔と戦っているのがわかる。だが、俺の口からベッドに誘ってしまっては、彼女にまたあらぬ誤解をさせてしまいそうで、慎重に言葉を選ばなければならない。
「僕はもう寝る事にする。君も今日は眠ったほうがいい。僕は床で寝るから、ベッドを使ってくれていいからね」
「私、床でいいよ」
「客人を床で寝かせるなんて出来ないよ、眠れなくてもいいからベッドの上にいてくれ。おやすみ」俺は強引にベッドを勧め、床に横たわる。部屋は狭い。二人が床に居てはとてもじゃないが窮屈だ。兎にも角にも目を閉じる。次に目を覚ました時に彼女が居なくなっていても構わない。盗まれるようなものも無ければ、彼女の行動にお節介を焼くのも独りよがりな善行に感じられるので、考える事はやめて、早々に眠りの中に潜って行った。
次に目を覚ましたのは何時ものように昼過ぎだと感覚した。完全に夜行性の体内時計となっている俺にとって寧ろ早起きをしたと言っても過言ではない。次に彼女の事を思い出した。
床で眠ったせいか背骨が痛む。凝り固まった身体を蠢かせて、傍に置いていた携帯端末を手に取って時刻を確認する。13時半。うまく眠れていなかったようだ。俺が思っているよりもずっと早い時間だ。次に彼女の姿を確認するために上体を起こした。ベッドの上にはもう居なかった。帰ったかと思うと少し落胆したが、そもそも彼女の帰る場所などあるのだろうか。次の宿を探してふらついているのかも知れない。と。
「……あんた、ずいぶん長く寝ていたな」
玄関のドアが突然開くと、彼女が戻って来た。
「……おはよう。よく眠れたかい?」俺は問う。
「いんや」彼女は少しだけ笑顔のような表情を作る「ベッドで寝るのが久しぶりで、身体が落ち着かなかった」
俺はそうかと返事をして、彼女の手に持っている高校生鞄に目をやった。
「家に帰ったのか?」
「……窓から入って自分の物を詰め込んで、改めて家出して来た。」彼女は鞄を前に提示して、詰め込まれた荷物がその中にあると示した。その鞄の軽さを見て取るにとても少ない所有物しか持ち合わせていないみたいだ。
「あの、さ」
「何か?」
「改めて、しばらくここに身を置かせてもらってもいいか?」
「……親は君を探すかな?」
「探さないだろうけど、家出っつっても二、三日に一度は家に帰るよ」
二、三日に一度、家に帰ることで何を得るのだろうか。新しい傷以外に彼女の親が彼女に与えられるもの。
「学校には通うの?」
「……冬休みが終わったら。」
「じゃあそれまでは、ここにいていい。……それよりご飯は食べたのか?」
「まだ、何も」
「そうか」
「いや、実は……お金全部親に取られたんだ」
「そうか」俺はまだ眠りを引きずる意識を無理矢理働かせながらこれからの計画を立てる。とりあえずシャワーを浴びないことには外に出る気が起きない。彼女もまた身なりがお世辞にも整っているとは言えない。全身の痣や擦り傷、髪だって傷んでいる。
「とりあえずシャワーを浴びてこい。着替えは持ってるか? 僕の服でも構わないなら適当に見繕うけど」
「シャワー……」
「?」
「あ、いや。着替えね。……お、お願いします」
「ん」
彼女にバスタオルを手渡して、バスルームに案内する。湯沸かし器のスイッチを入れて彼女を中に案内した後、俺は彼女に合いそうな着替えを探す。
押入れの中に眠っている衣服の中で男女関係なく着れるものといえば民族系のものしか持ち合わせていない。俺はサルエルパンツを引っ張り出して確認する。ウェストは多少緩いかも知れないが、腰紐が通っているから調節は可能だろう。次にトップス。幾つかシャツを見繕って、彼女に選ばせよう。
おそらく10分もかからない内に彼女はバスルームから出てきた。腰まで伸びたままの、決して手入れの行き届いていない髪を張り付かせた肌からは湯気を立ち昇らせている。彼女と入れ替わるように、バスルームに入りシャワーを浴びた。
熱い湯を頭から浴びたことで、幾分目が覚めた後、一通り身体の汚れを洗い落とすと、俺もすぐにバスルームから出た。
髪を乾かそうとした時に、彼女がタオルで髪を乾かしているのを見て、ドライヤーの在り処を伝え忘れていた事に気付いた。
「おっと、ドライヤーがどこにあるか教えてなかった。ほら」俺は手に持ったドライヤーを彼女に手渡した。
「あ、ありがと」彼女は覚束ない操作でドライヤーのスイッチを入れて髪を乾かし始めた。あまり想像したくはないが、彼女のたどたどしい動きは全て家庭環境に繋がっているのだろうと思う。ドライヤー一つ、彼女には馴染みのないものなのだろうか。
「……まえ」
「え?」ドライヤーの温風によってかき消された彼女の言葉を聴き返す。
「名前をまだ知らない」
「あぁ、名前」
そうだった。名前も知らない彼女を家に上げている。彼女からすれば、名前も知らない男の家にいることになる。
「僕の名前はオトリだ」
「おとり? それは本名なのか」
「鳥の尾と書いて『尾鳥』」
「じゃあ、次は何の仕事をしてるんだよ」彼女
はドライヤーを止めて俺に手渡す。もうほとんど自然乾燥してしまった髪を温風に当てながら答える。
「周波数調整員だよ」
❖
周波数調整員。22世紀の発達したネットワークとそれによって発生する浮遊バクテリアの霊素可視化現象について問題を解決する組織。
拡張現実による物質世界への侵略。それは黒幕の存在しない歴史上最大規模の人口災害であり、集団で共通の幻覚を見る等の事件報告が相次いだ。それは、風化しつつあったカルト宗教やテロのような理解不能の恐怖と混乱を全世界に、そして同時多発的にもたらした。具体的な解決策が見つからぬまま世界は3ヶ月もの間拡張現実とともに過ごした。天地が反転したり、肉体が腐り落ちる幻覚や魑魅魍魎の目撃談。地獄が溢れかえったのだと例えられる世界的集団幻覚事件は、義務教育の教科書にもいち早く取り上げられる。とにかく、それ以来インターネットは国営化され、納税額によって閲覧権限が比例するように整備された。当時は避難の声も強かったが、閲覧権の保証されているお偉方は肯定的で、力ない市民はすでに無力だった。何より、インターネットの接続を制限してから事実、拡張現実の侵食は抑えられたのだ。――今現在インターネットの閲覧は個人の納税額によって6段階に分けられている。
そして周波数調整という仕事は、侵食する拡張現実に対して調査する仕事を指す。調整員は特定の周波数が溜まりやすい地域や人物に対して調査を行う人の事だ。そして周波数というものは奇妙なことに幽霊や未確認生物などのオカルトな現象に非常に似通っていた。
……大掴みに言うならば、『幽霊退治する仕事』だと、同期は揶揄していた。言い得て妙だと、俺も思う。
「幽霊退治……聞いたことあるな。嫌われがちな仕事だっけ」
周波数調整員という仕事について、およそ中学校の教科書に載っているのと同じような俺の説明を聞いて、彼女はそんな事を言う。
「まぁな。インターネット制限だって、混乱している内に施行されたから、未だに反感を持つ人が大半だろうし、周波数調整員である事を公言したら、怒りの矛先を向けられる可能性が高い」
「どうして、周波数調整員なんかに」
「理由は二つある。一つは国営化する前はウェブデザイナーだった事。もう一つは適性があった事」
「適性?」
「適性。体内に流れる電気が特殊で、周波数に親和性が高いんだ」俺は饒舌になっている自分を不意に自覚して、彼女を置いて行っている事に気付いた。そもそもすべての人間の身体から電気が流れていることも、当たり前の知識とは言えないのだ。改めてわかりやすい言葉を探す。「簡単にいうと、変な人は周波数調整員に向いているってことだよ」
俺はそう言ってまとめると、彼女は、なら私も向いているかもな。と笑顔を作った。その笑顔はやはりぎこちない。
「何でこんな話になったんだっけ?」
「名前を聞かれて、職業を聞かれたんだよ。次は君の名前を教えてくれ」
「あ、そ」彼女は自己紹介をする。ここでやっとお互いの名前を知ることになる。「饗庭小夜。……高校2年」
饗庭小夜か、家庭環境を踏まえると意外なほど綺麗な名前だ。
「いい名前だ。……現実でこんなこと言うのは初めてだけど」
「そうか?」
「親がつけたとは思えない」
「おばあちゃんが付けてくれたんだ。今はもう居ないけど」
「そうか」なるほど。
祖母が居なくなって、いよいよ家庭の均衡が崩れたとか、そんな感じだろうか。
「さて」俺は話が落ち着いた所で、昼食を食べに行こうと立ち上がる。「饗庭さん、ご飯は何か食べたいものはあるか?」
「何でもいい」彼女も俺に続いて立ち上がる。饗庭の選んだシャツは灰色の無地のものだ。理由は単に丈が長く、傷を隠せることに尽きる。サルエルパンツも男女共用のデザインだったから、違和感はない。季節を考えると寒いかもしれないが、饗庭は大丈夫そうだった。制服の時とは意外なほど印象は変化して、お通夜のような暗い影はだいぶ薄れた。親の元を離れているという状況も大きな要因だろう。改めて見てみれば、饗庭の外見はとても整っていた。
外に出ると街は家族連れが多く見られた。正月の穏やかな空気に、住む世界の違いを実感する。
俺は今、家出少女と共にいる。
「饗庭さんの親がいるかも知れないな」
「いるわけない」
「何でわかる?」
「外に出たがらないから」
何か含みのある言葉と表情の陰りを見て、何となく追求するのは避けた。饗庭の断定的な物言いを、とりあえずは信じておこう。そして昼飯は最寄りのファミリーレストランで問題ないかと饗庭に確認する。何一つ不満はないと言う旨の返事が返ってきたので、店内に入る。
ウェイトレスに案内された席に腰を下ろす。正月の影響か店内はまるで貸し切り状態と化している。気まずいほど空いているのに、店員はこれから客が押し寄せるなんて妄想でもしているのか、堂々として中央の二人席を指定した。向かい合って座るような狭い席だ。不満を覚えるが、ここでいちいち腹を立てるほどの事でもない。勝手に移動するだけだ。少なくとも隅の四人席でも大した問題も無い。
「移動する?」と、俺に向かって聞いてきた。
「僕らしか居ない店内で、馬鹿みたいに狭い席に座る必要はないさ」
「……ま、ね」
饗庭が興味無さそうな返事をして付いてくる後ろに、先程のウェイトレスが歩いてきた。
「こちらお冷になります。ご注文お決まりになりましたらベルでお呼び下さい」
「どうも」俺は軽くお礼を言って、ウェイトレスが奥に消えるのを見届けた。「ほら、何も言わないだろう」
「でも、なんか悪くないか?」饗庭は抽象的な道徳観念を持ち出す。
「そんな曖昧な善悪の価値観じゃあ、苦労するぞ。……この場合の悪人は二人。一人は狭い席に座らせた店員。もう一人は指示に従わない僕。饗庭さんは今回は第三者ってことで」
「第三者?」
「悪人になれなかったってことだよ。善悪に限らず、自分の意思を尊重して生きたほうがいい」
「自分の、意思……」饗庭には何か思うところがあるのか、口の中でその言葉を転がした。どこを見るでもない視線は猫のようだった。その視線は僕とぶつかり、そして逸らした。
「昔から意思を伝えるのが下手だったよ」
「……例えば?」僕は聞き手にまわる意思を表して話を促す。
「今まで、人から言われた事はなんとなく受け入れてきた。記憶に残っているのは、そうだな、初めてクラス委員長になった時だ――」
私が初めてクラス委員長になった時は、小学校の3年生の時だった。中学年という区切りになって私は名簿番号が一番になった。2年生の時まではクラスに相田という男の子がいたので、初めての一番だった。
担任の先生が『新しく委員長を決めたいと思います』と、生徒の前で伝えると、辺りからは誰を選出するか、ひそひそと会議が始まった。私は当時から友達作りが苦手で、後ろの宇垣君も、横の柴咲さんももう私に背を向けて新しい友達と話し合っていた。
3分ほど経ったのち、驚くことが起きた。
教室の生徒全36名中35名が『委員長は饗庭さんがいいと思います』と、一字一句同じ言葉を教室に響かせた。
私の知らない内にみんなが操られているみたいな光景は、今でも覚えてる。
名簿番号の順に一人ずつ名前を挙げていくから、一番最初は私から発表したの。椅子から立ち上がって『委員長は、えっと、……羽田さんがいいと思います』そう言って着席。後ろの宇垣君が入れ替わりで立ち上がると『委員長は饗庭さんがいいと思います』着席。入れ替わりで大谷さんが『委員長は饗庭さんがいいと思います』着席。入れ替わりで尾木君が『委員長は饗庭さんがいいと思います』着席。――それを35名。怖かったという言葉では形容できない異質さがあって、私はずっと固まっていたと思う。私だけが理解できない共通の認識が存在して、みんなはその認識からくるシステムに対して絶対的支配下にあるんだと、子供心に思っていた。だから私はそのシステムの支配下に入っているふりをしたの。私も同じシステム下に置かれている。と。
委員長になった私は、あとで数人のクラスメートに、私を選んだ理由を尋ねた。全て同じ答えが返ってきた。『饗庭さんは名簿番号が一番だからだよ』……相田君は委員長にはならなかったのに。
そんな子供の頃の環境から、私の生きる方針が形成された。『多数決』というルールの上で自分を殺してきた。
「……最近、それじゃあダメだって思い始めて、でも……」
「トラウマか」
子供の頃に形成された価値観は、作り変えるのが難しい。『善悪を定義する前に善悪を定義する物差し』は、外部から矯正した所でどうしても人格否定の領域に入る。だから、やり直すには自分の力で自分をやり直さなければならない。
「確かに、饗庭さんの過去に今の性格を作った原因はあると思う」
「ま、結局、今回の家出だって、親に追い出されてから始まったことだし」饗庭は少し疲れた顔をして笑った。
「……まだ17歳だから、ここから性格を作り治せる。ゆっくり自分を見つめ直すしかないよ」そして僕は両手を叩いて乾いた音を鳴らす。「それより、何食べる?」
店員を呼んで注文を伝える。話しは長くなりそうなので、食べながらいろいろ聞いていきたい。
「……尾鳥さんが優しい人でよかったよ。正直、気が休まらなくて眠れなかったけど、本当に信じてもいいんだな」饗庭はメニューを片付けて両手を組み、俺を見つめた。ほんの少し和らいだ表情は信頼と取れるが、もし俺が悪人だった場合、油断とも取れる。
「そうかな?」俺は少し微笑んで、「油断させてから襲う悪い人かもしれないぞ」
「本当に悪い人はそんなこと言わない」
饗庭の油断、今は少なからず好意的に受け取る。
「……今日はゆっくり寝るといい。俺は夜仕事だから、朝まで公園にいるけど」
「周波数調整員の仕事って、必ず夜じゃないとダメなの?」
「いや、人によって違う。基本は変動給制だから、報告書の内容で評価される」
「報告書に嘘を書いたら?」
「バレるよ。上から支給されるものはいろいろあって、例えばこの携帯端末も支給されたものだ。守秘義務のせいで言えないけど、この端末で仕事の量や質は全て共有される」
「……なんだか現実味がない話だね」
「んー、まぁ、僕たちは『幽霊』を相手にする仕事だからな、普通の人からすれば嘘みたいな話だ」
「じゃあ、尾鳥さんについていけば、夜に幽霊が見れるの?」
「見えるんじゃないか……と、」途中で店員が料理を運んで来るのが見えたので会話を止める。店内に未だ客は訪れず、このお店は正月とは関係なく閑古鳥が鳴いているのだろうか?
注文した料理がすべてテーブルの上に並び、店員が再び奥に消えると、俺はカトラリーケースからナイフとフォークを手に取る。ミックスハンバーグのコーンをフォークで掬いながら、中断した会話を再開する。
「微弱な電界が、この辺りの公園にあるんだ。今やっている仕事は女の子の幽霊が相手だから、むしろ仲良くなれるかもよ」
「本当?」
「ついてくるか? 深夜だから、眠くならないように昼寝しておかないと体力もたないぞ」
「じゃあ、すぐに寝ないとだな」饗庭はオムライスをスプーンで一口大に切り取って口に運んだ。「言っとくけど、寝込みを襲うなよ?」
「襲わない」俺はハンバーグを食べながら「言っとくけど、体力的には僕が負ける気がする」
今夜はぐっすり寝ろと言ったそばから、饗庭は徹夜仕事について来ると言う。まぁ、昼寝するのなら問題ないか。なんて考える。この仕事は秘密が多いが、幽霊を見せる位は問題ない。誰にでも見ることができる拡張現実だから。