9.見えない声
灯りの落とされた寝室。木製のチェストと燭台の他は二台のベッドしかないそこで、菜月は腕を組んでいた。目線の先には既に寝入ってしまったタクトが自分のベッドで横になっている。昨夜と変わらず寝苦しそうな表情で。
(眉間にしわ……)
起こさないようそっとその場所を撫でる。すると少しだけ力が抜けた気がして、菜月は自分よりも硬いタクトの髪を撫でた。しばらくそうしていると段々とタクトの呼吸のテンポがゆっくりしたものに変わっていく。少しは楽になっただろうか。けれど一晩中こうしている訳にもいかない。
午後にたっぷり昼寝したおかげで今はそれほど辛くはないが、明日から本格的に精霊のことを学ばなくてはならない。ランスロットは講義と言っていたから、しばらくは座学が続くのだろう。生徒は菜月一人なのだから、居眠りなんてしようものなら即追い出されてしまうかもしれない。ここから叩き出されても幸い帰る場所はあるけれど、町長には二ヶ月王都に行くと言って出てきたのだ。それより短期間の内に帰ってきたと知れたら、何かしでかしてしまったことは直ぐにバレる。もう若気の至りなんて言い訳がきかない歳だ。みっともない真似は避けたい。その為に菜月も早く寝なければ。
(体が痛くなるのが難点なのよねぇ……)
ソファの上から持ってきたクッションを並べて即席のマットレスを作り、菜月はタクトが眠るベッドのすぐ脇で毛布を被って横になった。
* * *
「昨夜ご案内した大聖堂は祈祷の時以外は入れません。また正面入口しか出入りすることは出来ませんので、必ず一度外に出て正面へ回り込む必要があります」
「へぇ」
翌日。朝食を済ませた菜月は朝からランスロットに連れられ、神殿の敷地内をゆっくり散策していた。昨日は宿舎と大聖堂しか目にしていないが、大聖堂の後ろには本殿があり、それを囲むように三つの外殿がある。外殿はその位置関係から北殿、東殿、西殿と名前が付けられており、部外者である菜月の出入りが許されているのは本殿と神官達の生活の場である東殿だけだ。北殿は春に行われる催事の準備に現在使用されているそうで、関係者以外は立入禁止。西殿は催事で使用する祭具や宝物・貴重な文献などが保管されているらしく、一般の神官も簡単に立ち入ることは出来ないらしい。
神殿イコール大聖堂だけのイメージだったが、国の中心部に建つ大神殿だけあって敷地内はとにかく広い。神殿の北方に広がる草原や森も神殿の管轄だった。
大聖堂を外から回り込み、本殿へ入ろうとした時、昨日の昼寝の時と同じく子供達の笑い声が風に乗って聞こえてきた。
「神殿で働く方達の中にはお子さんと一緒に生活している方もいるんですか?」
「いいえ」
「え? そうなんですか?」
てっきり肯定の言葉が返ってくるものだとばかり思っていた菜月は面食らってしまった。そんな彼女の声にランスロットが訝しげに振り向く。
「そんなに驚くことですか?」
「えーと、じゃあ、一般の参拝者がお子さんを連れてくるとか?」
だが彼は首を横に振る。
「ここは街中の神殿とは役割が異なります」
「役割?」
「はい。この大神殿は神官達の修行の場として建てられました。催事や特別な時以外は一般開放をしていません」
「つまり、この敷地内にいるのは神官の他にはここで働く人達と巡礼者の方だけってことですか?」
「そうです。先程お話ししたように現在北殿には春の催事の為に外からの関係者が出入りしていますが、その中にも未成年者は一人もいません」
この国の成年は十六歳から。菜月が想像していたような小さな子供は一人もいないらしい。説明を聞いても納得がいかない様子の菜月に、ランスロットも首をかしげる。
「何故そんなことを?」
「えーと、子供の声が聞こえたと思ったので」
「子供の声?」
「はい」
ランスロットが周囲を見渡す。けれどやはり子供の姿はない。
「今も聞こえますか?」
「いえ。さっきも遠くの方から微かに聞こえる感じだったので……、もしかしかたら聞き間違いかもしれません」
「そうですか……」
神殿の建物は木々に囲まれており、街の喧騒も届かない距離にあるから敷地外の声ではないだろう。昨日は寝入りばなだったし、こうもきっぱり否定されると勘違いだった気がしてくる。ランスロットは何か言いたげに口を開きかけたが、結局それ以上彼女が聞いた声については追及してこなかった。
「分かりました。とりあえず中に入りましょう」
「はい」
本殿の中も大聖堂や宿舎と同じく基本は石造りの建物だ。敷地内の建物は全て平屋で、床には深緑色の絨毯が敷かれている。石造りと言っても閉塞感が無いのは等間隔にある明り取りの為の天窓のお陰だろう。建物内は早朝でも十分明るい。本殿は主に神官達の業務・執務の場で、外部からの来客を迎えるのもこの場所らしい。ここを中心に外殿に繋がる廊下があり、それぞれの建物と行き来することも出来る。因みに神官見習い達側の宿舎と唯一繋がっているのが東殿なのだそうだ。
執務の中心と言っても役場のように忙しそうに人が行き来する様子は見られない。建物の広さに比べて人はちらほら見える程度で、神官という職業柄か、移動の仕方も静かで時間に追われているような様子はない。
周囲を観察しながらランスロットについてしばらく進み、正面入口から最も奥にある一室に通された。北と西の壁に大きな窓がある明るくて静かな部屋だ。東側は廊下、南側には本棚が備え付けられている。二十畳ほどの広さの中に五・六人が並んで座れる長机が二列置かれていて、その香りから素材はハイモクだと分かった。
ここは普段神官達が調べ物や自習をするのに使用する部屋らしい。人の出入りが多い正面入口や来客を迎える応接室から離れた場所にあり、確かに勉強するのに向いている。
「どうぞ。お座りください」
「はい」
前列の窓近くに座る。するとその前に椅子を一脚移動して、ランスロットは向かい合うように腰を下ろした。
「……ランスロットさんが先生なのですか?」
「えぇ。何か不都合でも?」
こちらを見向きもせず、持っていた分厚い本を開く。冷たい言い方だが怒っている訳ではないのはこの短い付き合いの中で理解していた。彼はこのしゃべり方が通常運転なのだ。
「いえ……。ただ意外で」
そこでやっとランスロットは顔を上げた。
「何故です?」
「ランスロットさんって、結構偉い方でしょう? 重要な役職の方がこの為に時間を割いて大丈夫なのかなと思って」
「…………。よく分かりましたね」
菜月がそう予想したのは彼が勇者の元仲間、つまり救国の英雄の一人だからだ。彼は幼い頃から神官職を目指していたそうだから、自らその報酬に地位や名誉を望むことは無かっただろうが、それでもそれなりの待遇を受けた事を想像するのは容易い。単に彼に欲があるという話ではなく、国をひいては世界を救った英雄に報酬を与えないというのは国の沽券に関わるからだ。少しでも国の中枢に近い人間ならば、報酬を受け取ることも国の対外的な体裁の為に必要なことだというのが分かるだろう。タクトが取った行動は様々な意味で当時の人々を驚かせたに違いない。
だがそれを彼に話すのは気が引ける。ランスロットの言葉に菜月は苦笑を返しただけで、理由を明言することは避けた。
「役職としては枢機卿に当たります」
「すうききょう……。え? 枢機卿!?」
「はい」
「はいって……。かなり偉い方じゃないですか……」
この国の宗教組織については詳しくないが、枢機卿と言えば内部の発言権はかなり高く、神官長の選定にも口を出せる権力を持っている筈だ。
「今回の講師については神官長より賜った任ですのでお気になさらず。では早速講義に入りますよ」
「あ、はい。よろしくお願いします」
もしかして、王都に知り合いがいない自分に気を使ってくれたのだろうか。申し訳なく思いながら、菜月は改めて頭を下げた。
「まず、精霊というのは純粋なエネルギー体に意志が宿った存在です。我々生物は物質で構成されているのに対し、彼らは魔素のみでその体が構成されています。魔素、という言葉はご存知ですか?」
「はい。一度シーリーに簡単な話は聞いたことがあります。世界を構成する物質の一つだと」
「えぇ。その認識で間違いありません。魔素はありとあらゆる物の中に存在しています。空気にも水にも植物にも動物にも、そして我々人間の中にも。魔素の保有量が多い人間は体内にある魔素を利用して、手順を踏み、現象を起こすことが出来ます。これがいわゆる魔術と呼ばれるものですね。一方精霊も同じく自らの魔素を利用しています。こちらは魔法と呼ばれています」
「以前シーリーが山小屋の中で風を起こしたのも?」
「えぇ。はた迷惑ですが、あれも彼の魔法の一種です」
はた迷惑って……。まぁ、確かにそうなのだけれど、相変わらずシーリーに対してはトゲがある。
「では何故精霊を見ることが出来る者と、出来ない者がいるのかも聞きましたか?」
「見ることが出来ないのは、精霊と人間が利用している魔素の種類が違うからだとしか……」
「成程。便宜上、精霊が利用しているものを蒼の魔素。人間や動植物が利用しているものを紅の魔素、とこの国では呼んでいます。何故この二種類があるのか、また他にも魔素の種類が存在しているのかは未だ解明されていません。通常の人が精霊を見ることが出来ないのは、ナツキさんが仰った通り利用する魔素が異なるからです。生物は必要なものだけを取捨選択し、より効率的に利用できるよう進化するものです。それによって長い年月をかけて我々生物は紅の魔素を利用し易い体になっています。一方利用できない蒼の魔素を感知する能力は退化し、今に至っています」
確かに進化の過程で生命維持に必要のないものは退化するのが必然だ。紅の魔素でさえ全ての人間が目に見える形で利用出来ている訳ではないのだから、不必要な蒼の魔素など感知出来なくて当然だろう。
「可視者には大きく分けて四つのパターンがあります。一つ目は遥か昔に生物が持っていた蒼の魔素の認識能力が今も残っている感覚の鋭い者。二つ目は第六感的に他のエネルギーを感知できる者。三つ目は環境により後天的に認識能力が刺激された者。そして最後は血族が精霊に祝福されているもの」
「祝福……?」
「えぇ。一つ目と二つ目は先天的に持っている本人の能力という事になりますね。特に魔力を多く持つ者や訓練を受けた者に多い。最後の理由はほとんど稀です。一方的に精霊に気に入られるか合意の上契約を交わすかした場合、精霊が末代までその血筋の者に関わることを言います」
末代まで、なんて言葉を引用されると呪いの様でぞっとしない。ただ『祝福』という言葉が使われているのならば悪いことではないと思うけれど。
「私もどれかに当てはまるのですか?」
「えぇ。魔力がそう多くないことや、ナツキさんの生活環境を考えると三つ目の後天的に備わったというのが有力です」
「確かに……」
菜月が精霊を見えている本当の理由はそうではないが、それを知らない人間から見れば三つ目の理由が一番妥当だろう。実際故郷では精霊を見たことなど一度もないし、無理のない説明だ。菜月も納得して頷いた。
「ナツキさんが初めて精霊を見たのはいつです?」
「実はシーリーなんです。あの山小屋で」
「やはりそうでしたか」
アイスの一件でシーリーと仲良くなった際、シーリーが暖炉で眠っていた炎の精霊を見つけくれた。ナツキが仔馬と呼んでいた炎馬とはそれからの付き合いだ。
「大精霊と言われるだけあってシリフェイス・ルーローの持つ魔力は大きい。それに刺激される形でナツキさんの能力が発現した可能性が高いですね」
「ランスロットさんも精霊の姿が見えるんですよね?」
当たり前のようにシーリーと話をしていたし、昨夜の光の精霊も見えていたようだった。神官全員精霊が見えるわけではないだろうが、少なくとも彼は見えている筈だ。
「えぇ」
「何故と伺っても?」
「私の場合は一つ目の理由ですね。可視者の中で最も多いのがこれです」
「じゃあ、タクトやローエンさんも?」
「タクトは恐らくそうですが、ローエンは違いますね」
「え? そうなんですか?」
「えぇ。彼はほとんど精霊の姿が見えていません。直感的に何かが居ることを察知しているだけです」
つまり彼は二つ目の理由に当てはまる訳だ。なんだか話だけ聞くとそちらの方がすごいような気もする。皆さんすごいんですねぇと思わず呟くと、世間から見ればあなたも十分すごいのですが、と返された。本人実感ないですけどね。
「ナツキさん。あなたは精霊が見えるだけではなく、声も聞こえていますよね?」
「はい。そうですね。シーリーとは普通に会話できますし」
「昨夜の光の精霊たちはどうです?」
そう訊かれ、昨夜見た神秘的な光景を思い出す。沢山の蝋燭に灯された神殿と、その中心に立つ優しい笑みを浮かべた小柄な神官長。そして、その周囲に浮かぶ小さい光の粒。
「そういえば……、小さい子供が笑った時のような声が聞こえました」
シーリーのようにちゃんとした言葉ではないが、赤ちゃんがはしゃぐようなキャッキャッと高くて小さい声は確かに聞こえていた。山小屋の炎馬とも会話をしたことはない。あの仔馬の姿そのままの嘶きは何度も耳にしたけれど。
「神殿の入口で聞いた子供の声というのは、その声に近いものでしたか?」
「あっ……」
そう言えば、と頭の中で比較してみる。入口で聞こえた声にナツキが想像したのは小学生ぐらいの子供達が外でかけっこをして遊ぶ様子。だが、光の精霊はそれよりもっと幼い印象だった。
「ちょっと違う気がします。入口の所で聞いたのは十歳前後ぐらいの子供のように聞こえました。光の精霊の方が幼い声で……」
「……そうですか」
ふと視線を外してランスロットが考え込む。
「神殿の周りには精霊が多いのですか?」
「街中よりは多いでしょうが、ここも人の集まる場所ですからね。少なくともナツキさんが声を聴いたと言った時、私は周囲に精霊の姿も声も認識できませんでした」
「じゃあやっぱり勘違いですかね……」
気にはなるがこの場で答えが出る問題ではなさそうだ。気を取り直して、ランスロットは持っていた本のページをめくった。