7.任務の開始
決して狭くはない二人部屋に置かれたベッドの間は目測で二メートル。たった二メールしかない。
(どうして……)
灯りの消えたベッドの中。横になったまま、菜月は隣のベッドを見ていた。正確にはそこで眠るタクトを。何度も寝返りを打ち、寝苦しそうに眉間に皺を寄せている姿を。
(どうして?)
山小屋に泊まっていた時はとても気持ち良さそうに深い眠りについていた。そしてシーリーは菜月が傍にいるからだと教えてくれた。
菜月は今タクトの傍に居る。山小屋の時よりも遥かに近い場所に。それなのにタクトはあの時のようには眠れてない。
どうしようどうしようと暖まった布団の中でぐるぐる悩んでいたけれど、意を決してベッドから出る。音を立てないよう静かにゆっくりと。敷かれた絨毯が菜月の足音を消してくれる。冬の冷たい空気に腕をさすり、夜の暗く青い光の中でタクトの表情を確認した。
(ここまで近づいても起きないのなら、眠ってはいるんだろうけど……)
今も魔物相手に戦っている彼のことだ。起きていれば隠すことを知らない菜月の気配ぐらい簡単に気が付けるはず。その彼が起きる様子を見せないのだから、眠りに落ちているのは間違いない。けれど専門家ではない菜月から見ても健やかな睡眠ではないのは明らかだ。これでは疲れなど取れる筈がない。
(あの時と今と、何が違うんだろう……)
山小屋の夜と今夜。違うのは場所と、シーリーがいないこと。けれどシーリーの言葉を信じるのならばそれが原因ではない筈。現に彼は馬車の中で気持ちよさそうに居眠りしていた。
なら比較するべきは山小屋と宿屋ではなく、馬車と宿屋だろうか。馬車の中はカーテンがあっても昼間だから明るく、車輪の音も常にしていたし揺れていた。眠る条件としては宿屋に比べて遥かに悪かった。
(あ、そうか)
シーリーは紅の魔素が菜月を避けるように漂っていると言っていた。菜月の体質が魔素を消している訳ではない。避けているだけなのだ。
(私は、魔素を掃き掃除しているようなものなんだ)
馬車の中にもこの宿屋の部屋の中にも魔素はある。けれどそこにある魔素を除去することを考えれば、空間が狭い馬車の方が宿屋よりもはるかに簡単だ。それにあの時菜月はタクトの隣にいた。タクトにとって菜月がバリアになっていた筈だ。一方山小屋は本人に自覚がないとはいえ、三年も住んでいればかなり除去は進んでいた筈。タクトにとってより良い環境が出来上がっていたのは間違いない。
(タクトの反対側に居れば、周りの魔素は私を避けて逆にタクトの方に流れて行ってしまうんだわ……)
彼が寝ているベッドの周りをグルグル歩き回れば魔素を除去できるだろうか。いや、それで一時的に出来たとしても、再び菜月が自分のベッドに入ってしまえばふりだしに戻るだけかもしれない。菜月が魔素を弾く。タクトは吸収する。正反対の性質を持つ二人が対極の位置に居れば、山頂から山裾へ流れる川のように魔素の流れが出来てしまう。つまり彼の傍に居れば、菜月はタクトを魔素から守るバリアになれる。けれど閉ざされた空間の中で離れた場所に居れば逆に彼の方へ魔素を流す送風機のような役割を担う事になる。
(解決策は、一つ……よね)
要は離れた場所ではなく、少しでもタクトの傍に居れば良いのだ。理想は馬車の時の様にぴったりとくっついている事だろうが、今はそれに近い状況を作るしかない。
我知らず溜息を吐く。一度自分のベッドに戻って毛布を引っ張り出し、それを頭から被ると、菜月は絨毯の上に座り込んでタクトのベッドに寄りかかったまま目を閉じた。しばらくすると耳に入ってくるタクトの呼吸が穏やかになって、ようやく菜月にも眠りが下りた。
* * *
ざわざわと傍で聞こえてくる雑踏に菜月は重い瞼を持ち上げた。カーテンが引かれているとはいえ、朝食を食べてから二時間が過ぎたぐらいの時間であれば馬車の中は十分に明るい。どうやら今朝早くに宿を発ち、馬車に乗ってそうそう居眠りしてしまったようだ。やけに左側が暖かいなぁ、と思い顔を上げようとして失敗した。頭の上に何かが乗っかって邪魔をしている。
「?」
ゆっくりとそれに手を添えて体を離す。指先に触れたのは自分とは異なる硬さの髪の毛。それは隣に座っているタクトの頭だった。どうやら今日は互いに寄りかかるようにして居眠りしていたらしい。
菜月の動きで目が覚めたのか、タクトがもぞもぞと体を動かし、緩慢な動作で目をこすった。
「起きました?」
「あぁ、はい」
「もうすぐ神殿に着きますよ」
「え、もう?」
ランスロットの言葉にカーテンを開ければ、視界に飛び込んできたのは賑やかな大通り。丁度開店時間なのだろう。店を開ける準備でせわしない人々が右往左往している。菜月が目覚めるきっかけになった物音はこれだったようだ。今まで住んでいた町とは比べ物にならないくらい大きな商店街や沢山の人々。久しぶりに都会という言葉が頭に浮かぶ。
「神殿は街中にあるのですか?」
「いえ。王都の中心街からは少し離れた場所に位置しています。丁度王城の真東ですね」
「へぇ」
「神殿の北東には人の手が入っていない草原が広がっていて、ここよりは静かな所です。あと二十分もかからないでしょう」
ランスロットの説明を聞きながら、初めて見る王都の光景を眺める。商店は大きくとも二階建てで、少し離れた場所にはもっと大きな建物が立ち並んでいた。貴族のお屋敷だろうか。山裾の町のような可愛らしい三角屋根の建物は見当たらず、同じ国内でも場所が違えばこんなにも景色が違うのかと圧倒される。
窓に顔を近づけて馬車が走っている道の前方を見れば、街中よりも木々が多い場所へ向かっているようだった。建造物は見えないが、あちらに神殿があるのだろう。
「神殿に着いたらどうすれば?」
「神殿には旅の巡礼者や神官見習いの為の宿舎があります。しばらくの間そこで生活をしてもらいますので、まずは荷物を運びましょう。その後は神官長と顔合わせを」
「神官長……ですか」
「えぇ。これは可視者を迎える時の決まり事ですが、神官長からのお言葉を得るだけで直ぐに終わりますので気負う必要はありませんよ」
「それなら助かります」
王都の神殿の神官長なんてただの町人からすればとんでもなく雲の上の存在だ。お言葉を頂戴出来るだけでも町に帰ったら自慢できる。
「菜月さんには明日からしばらく講義を中心に受けてもらいます。最初に研修期間は二ヶ月とご説明しましたが、順調にいけば一か月半ほどで終わる内容になっています」
「講義は明日からなんですか? 今日は?」
「今日は顔合わせだけで結構です。こちらも講師の選定など準備がありますし、菜月さんも生活の場を整える時間が必要でしょう」
「確かに、そうですね」
話をしている間に馬車が止まる。着いたのかと思ったけれど、まだ街中だった。一般の馬車は直接神殿の敷地内には入れないそうで、ここからは徒歩か専用の馬車に乗り換える必要があるらしい。
丁度待機していた馬車が一台あった為ありがたく乗り換えた。装飾のない地味な馬車だけれど、良い木を使っているのかヒノキの様な落ち着く香りがする。
「良い香りですね」
「ハイモクだな」
「ハイモク?」
「神殿の周囲に多く自生している常緑樹です。昔から神の庭に生える樹木とされていて、神殿内の建造物や家具などはほとんどがこの木材で作られています」
タクトの答えにランスロットが説明を加える。ハイモクはその使用が厳しく制限されていて、一般に流通する事はまず無いらしい。一時期乱伐されその数を減らしてから、国が年間の伐採量を管理することになったそうだ。今では神殿に関連するものにしか使用されない為、神殿のシンボルにもなっている。
馬車が走り出して数分で森の中のように木々の多い石畳の道に入る。初冬の季節でも緑が多いのはこの辺りの木々のほとんどがハイモクだからだろう。稀に見える落葉樹はすでにその葉の多くを地面に落としている。
そこから十分ほどで馬車が一時停止した。目の前には真白い石で出来た背の高い塀と木製の門。その背後には奥行きの長い大きな三角形の建物が建っている。どうやって建てたのか不思議な形だ。そこが神殿の本堂らしい。眺めている内に門が開き、馬車が敷地内へと入っていく。門の横を通り過ぎる際に見えた門番が頭を下げていたのが印象的だった。来客に対してなのか、それとも馬車に乗っている人物が誰か承知した上での礼なのか。訊いてみたかったけれど、礼をされた本人に訊くようなことではない気がしたので止めておいた。
速度を落とした馬車が本堂前で停車する。ローエン、ランスロット、タクトの順に馬車を下り、最後に菜月が顔を出すとタクトが手を貸してくれた。馬車は車輪が大きい為、車体が高い。女性ならば手を貸してもらうのが当然なのだろうけど、やはり自分が生まれ育った場所とは文化が違うなと思わず苦笑する。
「ありがとう」
「いや。疲れてない?」
「うん。大丈夫」
寄りかかった姿勢のまま眠っていたから肩と首が少し痛いけれど、お互い様だろう。
ローエンが馬車から荷物を下してくれた。自分の分を受け取ろうとしたけれど、首を横に振られてしまう。
「良いんですか?」
するとローエンが一つ頷いた。宿舎まで運んでくれるらしい。お礼を言ってランスロットの案内で本堂から外れた西の小道を進む。すぐに石造りの平屋が見えてきた。
「こちらが神殿の宿舎です。玄関口から左が来客用、右が神官見習い用です。特にこれから春に向けて人の出入りが多くなる時期ですので間違えないように気を付けてください」
中に入ると外観と同じく石造りの廊下が続く。外気温はシーリーの森に比べて五度ぐらい高いものの、特にこの時期石造りは冷える。腕を擦りつつランスロットの後を続き、彼が開けたのは廊下の端、最奥の扉だった。
「こちらです。どうぞ」
「わぁ……」
思っていたよりも遥かに広い室内に思わず声が出る。床には絨毯が敷かれ、リビング左の壁に備え付けの暖炉。正面奥がキッチン。右にも扉があるがそちらは寝室のようだ。リビングだけでも二十畳ほど。来客用とは言え、神殿の宿舎でこれほど大きな部屋を貸してもらえるとは思ってもいなかった。
「こんな広い部屋で本当に良いんですか?」
「えぇ。本来ここは四・五人の家族用なのです。先ほども少し触れましたが、今から春にかけて巡礼者の多い時期でして。他の部屋は既に埋まってしまったので遠慮なく使っていただいて結構ですよ」
「え? そうなのか?」
その説明に驚いたのはタクトだった。タクトも宿舎に泊めてもらえるという話だった筈だが、他の部屋はもう空いてないと言う。
「なら俺は宿でも取るか」
けれどランスロットはそれに待ったをかけた。
「何を言っているんです。タクトの部屋もここですよ」
「は? いやいやいや、お前またそんなこと……」
「おや。お忘れですか? 王都ではあなたの顔が広く知られているのですよ? 街に出て騒ぎになったらどうするのです」
十年の月日がたったとはいえ、タクトはかつて国を救った英雄だ。凱旋当時は多くの人々の前に立つことも多く、絵姿が出回った時期もあるらしい。そんな状況では確かに不用意に出歩けばバレるのも時間の問題だろう。それが分かったのか、タクトの表情が渋いものになる。
「神殿の宿舎で過ごす方が賢明だと思いますがね」
「…………」
タクトが恐る恐る菜月を窺う。けれど当の本人はけろりとしている。
「私は全然構わないわよ」
宿屋の時と同じくあっけらかんと言ってのける菜月に、タクト深い溜息をついた。
山小屋でいつも子守唄代わりに聞いていたのは木の葉が揺れる音、鳥や虫の声だった。ここでは丈の短い草の上を走るサァッという風の音や遠くで働く人々の気配、かすかに聞こえてくる子供達の笑い声が耳に届く。しばらくベッドの上で横になり、菜月はそれらをBGMにうとうとしていた。
今宿舎の部屋に居るのは菜月だけだ。タクト達は荷物を運び終わると、王城へ出かけて行った。ルドワルド陛下がタクトとの謁見を強く希望しているらしい。その知らせを受けて、神官長への挨拶よりも優先すべきだと判断されたのだ。
彼らが帰ってきてから神官長との顔合わせとなる為それまでどうしようかと考えていると、ランスロットからひと眠りするように言われた。どうやら彼には菜月の寝不足が分かっていたらしい。同じ部屋で寝起きしていたタクトも気にしていたので、彼には旅慣れないせいか寝つきが悪いと説明していた。本当は床の上で座ったまま寝ているせいなのだけれど、ランスロットの方は本当の理由に薄々気が付いているのだろう。買い出しは明日時間を取ってくれるそうなので、今日は夕方までゆっくり休ませてもらうことにした。
(二日床の上で寝ていただけでこれだけ辛いんだもの。タクトは本当に慣れるまで大変だっただろうな……)
この部屋は厚手の絨毯が敷かれているから、宿屋よりはマシかもしれない。それに長く過ごせば過ごすほど山小屋のように紅の魔素の除去も進むだろうから、しばらく我慢すれば菜月もベッドで眠れるようになるだろう。
(それまでは、リビングよりも寝室で過ごす時間を長くとった方が良いのかも)
あれこれ考えている内に、だんだんと瞼が重くなっていく。思考が鈍くなると共に、菜月は睡魔に身を任せていった。