6.二人のタヌキ
雪に覆われた冬景色が窓の外を流れていく。てっきり町の人々が普段使用しているのと同じ乗合馬車を使うのかと思っていた菜月は初めて乗る二頭引きの箱馬車の中を物珍しげに眺め、それに満足すると遠ざかっていく田舎町に目を移した。
勿論この馬車に乗っているのは菜月一人ではない。当初の予定通りタクトとランスロット、そしてローエンが同乗している。けれど道中楽しいおしゃべりとはいかず、耳に入ってくるのはガタガタと不規則な車輪の音だけだ。それもこれも全部隣でのんきに眠っているタクトのせいだ、と菜月は隣の男をちらりと見た。
タクトとランスロット達はかつて魔物駆逐のために戦った仲間だった。けれど十年もの間顔を合わせることは無かったそうだ。ならば積もる話もあるだろう。特にランスロットはタクトと話をしたそうだったけれど、彼らが再開した山小屋ではシーリーの邪魔もあってそれも難しかった。シーリーは自分の森を守護する役割があるので王都まで同行することは出来ない。だからランスロットからすればやっと腰を据えて話せる時が来たというのに――
(当の本人がこれじゃあね……)
タクトは今実に気持ちよさそうに隣で舟を漕いでいる。馬車が揺れる度首がフラフラして、今にも菜月に寄りかかってきそうな感じだ。別に異性と触れ合うことを恥らう歳でもないから肩を貸すぐらい構わないけれど、魔物討伐を生業としている超肉体労働者なだけあって、ローエンほどではないにしてもしっかりとした体つきのタクトを支えるのは骨が折れそうだ。
ガタン。
「あ……」
土むき出しの路面に埋まっていた石にでも乗り上げたのだろうか。馬車が大きく揺れたかと思ったら、懸念が現実になった。タクトの体がこちらに傾いて、ずっしりと寄りかかってきたのだ。コテン、なんて可愛らしいものではない。自分より身長十センチ以上も大きな男が意識のないまま体重を預けている。重い。本気で重い。肩を貸すぐらい良いか、と思っていたけれど無理無理無理。肩だけで支えられるような重さではない。
(ぐっ……。背に腹は代えられないか……)
彼を起こさないよう慎重に座っていた位置を更に窓側へずらし、彼の頭を持ち上げる。そして自分の膝の上へ。あぁ、良かった。体のほとんどが椅子の上にある分、こちらの体勢の方が遥かに楽だ。目を覚ました時、知らぬ間に膝枕されていたなんて恥ずかしい思いをするだろうけど、こうなったらもう知らん。目の前で今の光景を見ていた二人も何も言わないし、好きにさせてもらおう。っていうか、レディが潰されそうになっていたんだから助けなさいよね。
そんなことを思っていたら、ふとランスロットの視線がこちらを向いていることに気づいた。いや、正確にはタクトの寝顔を眺めている。馬車の中は退屈で、他に見る物がないからと言うには少し熱心すぎる。山小屋でもそうだったけれど、ランスロットからの視線はどこか観察されているような気がして菜月は苦手だった。そこから逃れるように再び窓の外を見る。朝の光が山や野を覆う真っ白な雪に反射して眩しい。
そのまま馬車に揺られ続けてどのくらい経っただろうか。ぽつり、と声が漏れた。
「本当に……」
「え?」
思わず正面を見る。意図して発したのか微妙な声量だったけれど、菜月の耳には確かに届いていた。声を発した張本人ランスロットは、視線をタクトの寝顔に落としたまま言葉を続ける。
「あなたが居れば眠れるのですね」
「…………。そう、みたいですね」
タクトが眠れないことを以前から知っていたのか、それともタクトから聞いたのかは分からないけれど、菜月の口から出たのはどこか他人事のような言葉。そもそも三日前シーリーから真実を聞かされたばかりで、自分の体質の事など未だに実感出来ていないのだ。自信を持って私のおかげです、なんて言える筈もない。本人がこれなのだから、ランスロット達がこの事態を上手く飲み込めないのも当然だ。
「ナツキさん。あなたはご自分の体質のことをどれほど理解していますか?」
「……正直言うと、ほとんど理解していません。タクトが眠れないことも、自分の影響で眠れていることも、初めて知ったのは三日前ですし」
「シリフェイス・ルーローからは何か?」
「私のことは、他の人に比べて極端に魔力が少ないとしか……」
「成程……。彼にも詳細は分からないのでしょうかね」
考える時の癖なのか、ランスロットは口元を軽く覆うように手を当てて黙り込む。菜月はさり気なく彼から視線を逸らした。
山小屋を出る前、シーリーと約束したことがある。それは魔力の器を持っていない事や紅の魔素を寄せ付けない体質のことは誰にも言わないこと。だからランスロットの問いにはただよく分からないとだけ答えた。この歳まで一人で生きてくれば、社交辞令も上手くなるし、嘘をつく事への罪悪感も薄くなる。けれどそれがバレる事への恐怖は反比例して強くなる。だから冷静に人を分析するようなランスロットの視線を向け続けられる勇気はない。もうこれ以上その話題を掘り下げないで欲しい。そう思いながら窓の外へ目を向ける。
これ以上聞いても何も出てこないと判断したのか、次に彼が口を開いたのはタクトの話題だった。
「では、タクトが何故眠れないかは知っていますか?」
「確か……、魔力の器が他人より大きいから、体が魔素を吸収しようと働き続けてしまうせいだとか」
「やはり…………」
「?」
やはり? もしかして、ランスロット達もタクトが眠れない理由については知らなかったのだろうか。
「あの……」
「はい」
「タクトは……、あなた達には何も?」
「…………」
ランスロットは苦々しく眉を顰める。その表情に聞いてはいけなかったかと後悔するが、口から出てしまったものは取り消せない。
「情けないことに……、十年前の戦いが終わるまで私達は彼が眠れていない事に全く気が付いていませんでした。言い訳にしかなりませんが、魔物討伐に出ていた頃はいつ襲われても対処できるよう、眠っていてもすぐに起きられるよう訓練された者達ばかりでしたし」
体を休めていても常に気を張っている。皆が皆そんな状態だったのだから、眠っていない者に気づかないのも無理はない。タクトも仲間達に知られぬよう上手く立ち回っていたのだろう。
「何より、タクト一人に多くを頼らざるを得なかった……。彼が我々に相談しないのも、いや出来ないのも当然なのです」
(この人は……)
十年経った今でも悔やんでいるのだ。タクトの苦しみに気づけなかったこと。彼一人に重荷を背負わせてしまったこと。彼を助ける力がないこと。その全てを。
――ランスロットはタクトの為ならどんな助力でも惜しまないだろう。
シーリーも彼の抱えている想いに気づいていたんだろう。だから、相手が仲の悪いランスロットでも菜月のことを話したのだ。
「体を休めることが大切だというのは分かるのですが……」
「えぇ」
「私は、少しこの状態が心配です」
「? 何故です?」
「長い間ほとんど眠れなかった人が、急に長い睡眠を取ってしまうと体に不調が起きたりしないのでしょうか?」
眠れないのは辛かっただろうが、今タクトの体はその状態に慣れてしまっている筈だ。彼が普通の人と同じように睡眠を取るのは賛成だけれど、今はそれが普通以上になってしまっている。それが心配だった。
「……そうですね。多少体のだるさや魔力の錬成に影響はあるかもしれませんが……。王都に着いたら一度医師に診てもらいましょう」
「よろしくお願いします」
もし不調が現れても、タクトなら黙っている可能性が高い。ならば余計なことでもこちらからお節介を焼くぐらいが丁度いい筈だ。
暢気にも見えるタクトの寝顔を見下ろしながら、意外と手のかかる勇者様に菜月はこっそり溜息を吐いた。
黙っていた方が良い。相手は良い大人なのだし。そうは思っていても、一度気になってしまったものを意識から外すのは中々難しい。
皿のはしっこに積み上げられていくキュウリの山を視界の角に収めながら、菜月はちらりと向かいに座る男を見た。うん。見間違いではない。真白い神官の制服を着たこのいかにもな美青年が子供のようにキュウリを皿の端に避けている。好き嫌いするなと言ってやりたいが、口をつぐんで隣を見ればタクトに苦笑された。菜月の言いたい事を察している表情だ。一方ローエンは我関せずと食事を口に運んでいる。大柄な体躯に見合う速さで皿の上の料理が無くなっていくが、それに反してその所作は綺麗だった。
「王都までは後どのくらいかかるんですか?」
哀れなキュウリから意識を反らそうと話を振れば、ランスロットはフォークを握る手を止めた。
「今日宿を取ったこの町は王都まで丁度半分ぐらい来た所です。ここまで順調に進んでいますので、あさっての昼前には着くと思いますよ」
「ほとんど休憩無しでここまで来たけど、大丈夫だったか?」
タクトが眉を下げて菜月の表情を窺う。体調を気遣ってくれているのだとは思うが、長時間膝枕させてしまったことを気にしているに違いない。
「うん。大丈夫。ずっと座ってるとお尻が痛くなるけどね」
「……足は?」
「ちょっと痺れたけど、それくらいすぐ元に戻るわよ」
気にしなくて良いと言っても当の本人はそうもいかないのだろう。菜月は笑ってローエンを見る。
「そんなに気になるなら、明日はローエンさんに膝枕してもらう?」
「え?」
「…………」
ローエンが目を丸くしてこちらを見る。普段のいかつい顔が初めて見せたきょとんとした表情に思わず吹き出してしまった。
「ナツキ……」
「ご、ごめんなさい。ローエンさんなら鍛えてそうだから、足が痺れることもないかなと思って……」
「……必要ならやらないこともないが」
「いや、やらなくていいから。明日は居眠りしないように気を付ける」
タクトの発言にランスロットがこちらを見る。
(う。からかい過ぎちゃったかな……)
ランスロットからすれば、気兼ねせずタクトを寝かせてあげたいのだろう。
「気にしなくていいのに。やることもなくずっと馬車に乗っているだけなんだもの。誰だって眠くなるわよ」
現に菜月も一時間ぐらいタクトを膝に乗せたまま居眠りしている。ランスロットだって腕を組んだ姿勢のまま目を閉じていた。
「そうですよ。ローエンを枕にするくらい気にしなくていいことです」
「いや、そういう事じゃなくて……」
ランスロットのちょっとズレた発言にタクトがガックリと肩を下げる。噛み合っていない三人のやり取りが可笑しくて、菜月は必死に笑いを堪えた。
夕食を済ませて、後は用意された宿屋で眠るだけ。皆で食堂を出て、宿屋のロビーで聞かされたランスロットの言葉にタクトはあんぐりと口を開けた。
「は?」
寝耳に水、とは彼のような状態を言うのだろう。タクトは理解出来ないとその顔に貼り付けて、菜月とランスロットの顔を交互に見る。
「……今なんて言った?」
「二人部屋を二つ取りました。一つは私とローエン。もう一つはタクトとナツキさんです」
「…………」
何度聞いてもランスロットの言葉が信じられないらしい。それが何か?みたいなランスロットの表情がより現実感を失わせているのかもしれない。このまま彼の反応を待っていても埒が明かないと判断したのか、ランスロットは宿屋の鍵を差し出す手をタクトから菜月へと向けた。
「どうぞ」
「どうも」
「いや、ちょっと待て!」
これまた当たり前のように鍵を受け取ろうとした菜月の行動に、タクトが慌てて待ったをかける。その瞬間、菜月とランスロットはこっそりと目線を交わした。
(はいはい。分かってますよ~)
家族でも恋人でもない男女が一つの部屋に泊まろうと言うのだ。タクトが反対することは目に見えていた。けれど真実を説明するわけにもいかない。その結果、ランスロットは一切の説明も言い訳もせず、強行突破することにしたようだ。つまり、菜月にもそれに協力するよう目で訴えてきた訳である。シーリーはランスロットが上手い事取り計らってくれる、と言っていたけれどこれのどこが『上手い』のか。
仕方なく、菜月もランスロットを見習って普段通りの表情を作る。
「どうかした?」
「どうかって……。ナツキはなんで反対しないんだ?」
「反対する理由がないもの」
「いや、だって……」
菜月はランスロットよりもタクトの心情の方が理解出来る。けれどシーリーとの約束がある。ここで彼の説得を失敗する事はできない。上手い理由を探して、菜月はこの場にいる顔ぶれを見渡した。
「どうせ誰かと同じ部屋になるなら、私は気心が知れたタクトが一番助かるのだけれど」
タクトとは山小屋で三日間一緒だった。一方他の二人と顔を合わせるのは今日で二度目。誰が良いかと訊かれればこう答えるのが自然な筈だ。現にそれを聞いたタクトが言葉に詰まる。
「それは……そうかもしれないけど、恋人でもない男と同じ部屋って訳にはいかないだろう」
その正論過ぎる正論に、ランスロットはわざとらしく小首を傾げた。
「おや、タクトは何かいかがわしいことをするつもりが?」
「なっ!! あるわけないだろう!!」
「なら問題ないのでは?」
「うっ…………、それは……」
最初から予想できたことだけれど、タクトがランスロットに口で勝つのは難しいらしい。論破出来たことを確信したランスロットはタクトと菜月の二人に爽やかな笑顔を向けた。
「ここでいつまでも揉めている訳にはいかないでしょう。明日も朝早いのですからもう休みましょう。おやすみなさい」
「おやすみなさーい」
ひらひらと手を振り、菜月は隣の部屋に入っていく二人を見送る。次に自分達の部屋の鍵を差し込みドアを開けた。数年前にも宿屋に宿泊したことはあるが、その時は一人部屋だった。比較すれば今回の方が広いのは当然だけれど、そのことを差し引いてもこの部屋はそれなりに上等なようだ。普段使っているものよりも大きなベッドに質の良い絨毯。暖炉には既に火が入れてあって、室内は十分に暖まっている。しばらく部屋を眺めていた菜月は、目線が一周して扉に行き着いた所でようやくまだそこが開きっぱなしだったことに気が付いた。
「タクト? 入らないの?」
「…………」
声をかければようやく中に足を踏み入れる。けれどどうにも居心地が悪いようで、閉めたドアの前で突っ立っている。彼には可哀そうだけれど、菜月はわざと聞こえるように大きな溜息をついた。
「タクト。そんなに嫌がられると私もいい加減傷つくわ」
「えっ!!」
まさかそんなことを言われるとは思わなかっただろう。一気にタクトの表情が変わる。
「いや! そんなつもりじゃなくて……」
「分ってるわよ。私に気を使ってくれているのは。でも、あなたがいつまでもそんな風だと私も気持ちよく眠れないでしょ?」
「……ごめん」
「謝る必要はないわ。こっちこそ若いお嬢さんじゃなくてごめんなさいね」
「ナツキ~~」
「ふふっ。ごめんごめん。さ、寝る準備しましょう」
ようやくタクトの顔に笑顔が戻る。こちらのペースに持ち込めばこっちのものだと思ってしまった自分の思考はランスロットとあまり変わりないのかもしれない。そんなことを思って菜月は小さく苦笑した。