16.疑念と不安
昼食を食べ終わり、白地の陶器に入ったお茶をすする。一息つくと、菜月は中庭に面したテラスの壁にかかる時計を確認した。
(そろそろかな……)
食堂へ戻り食器を片付けて手を念入りに洗う。流石にお湯は用意されていないので手が冷える。指先を温めるようにこすり合わせ、上着を羽織ってテラスから中庭へ出た。
『ナツキ――!!』
外へ出た途端、空から自分の名前が降ってくる。それに応えるように上を向けば、青い空から現れたのは大きな影。それはゆっくりと大きな羽を動かして、雪の積もった中庭に降り立った。
「オルオ様」
『ナツキ!ナツキ!』
「今日も元気だね」
ぐりぐりとお腹に額を摺り寄せてくるのは成馬ほどの大きさがあるグリフォンだ。菜月の顔など丸飲みしてしまいそうな鷲の嘴に、獅子のような筋肉のついた体躯。広げれば体の二倍はありそうな大きな翼を持っている。一見して不思議な姿の獣だが、このクレイアドアの国民なら誰もが知っている神獣だった。初めて本物のグリフォンを見てから二週間。こうして昼休みにオルオと過ごすのが日課になっている。
グリフォンは保護されている国の象徴。だから神殿の中でも決まった神官と彼らの世話をする為に集められた少女達しか近づけない。その為、最初の二・三日は菜月もこれまでと変わらず講義を受けて過ごしていた。けれどいつまで経っても菜月が現れないことに不満を募らせたオルオが、最初に出会ったこの中庭に来ればまた会えると思ったらしく、再び姿を現したのだ。その後は勿論、神殿内が上から下への大騒ぎ。まず世話係の少女が呼ばれたがオルオは頑としてその場から動こうとしない。先日の事の次第を知っていた神官達が渋々菜月を呼び、ようやく騒ぎが収まったのだった。
それからと言うもの、昼休みに中庭でだけと約束をして会うようになった。時間と場所に制限を設けたのは、勿論神殿の者達が良い顔をしないからだ。本来ならグリフォンに近づけるのは身元が保証され、禊と厳しい食事制限を受けた少女だけ。いくらオルオに懐かれているとは言え、その条件を一つも満たしていない菜月が好きに振舞えば当然不満が出る。神殿は元より、選ばれた少女達は名だたる貴族の子女ばかり。菜月とてお世話になっている神殿と国の有力者達を敵に回したくはない。ならばオルオと会わなければ良いのだけれど、それではオルオの気が治まらない。グリフォンは神殿の敷地内から出ないとは言え、それは知能の高さ故に自分達がもたらすの影響を理解しているから自制しているのであって、その気になればどこへなりと行くことが出来るのだ。神獣の機嫌も貴族の機嫌も損ねたくない各関係者の協議の結果、昼休みだけオルオと会うことの出来る現在の形に落ち着いた。
一部神官達の目が厳しくなったが、一方で菜月に感謝する者もいた。普段なら選ばれた者達しか会えない神獣が、中庭に来れば儀式の時とは比べ物にならないくらいの近距離で見ることが出来るのだ。勿論オルオがいる間は中庭に降りることは許されていないが、テラスはガラス張りでその様子を堂々と見ることが出来る。下位の神官や神殿の職員達の間では、本人の知らぬ所で菜月のお陰だと感謝されていた。
「皆も元気?」
『ゲンキ! でもアリィ、怒ってる』
「え? どうして?」
『ニンゲンの子供、サカイ越える。ダメなこと』
彼らの傍にいる子供と言えば、あの少女達のことだろう。では“サカイ”とは一体何だろうか。
「サカイって言うのは何?」
『サカイは約束。だから越えるはダメ』
要領を得ないが、推測するに“サカイ”とは境界のことではないだろうか。彼女達は彼らの世話をするのが仕事だから、傍に近づこうとする。けれどグリフォンは餌付けされるただの動物ではない。知能のある気高い魔獣。だから必要以上の接近を嫌うのかもしれない。
(私は、大丈夫なのかしら……)
中庭の中でも特に陽の当たる場所にオルオがごろりと横になっている。その大きな体に包まれるような形で菜月は座っていた。端から見たらオルオをソファ代わりにしているように見えるかもしれない。それ程二人は近い距離だ。頭やあごの下など撫でてあげれば喜ぶので、顔を合わせれば一番に彼を撫でるのがいつの間にか習慣になっている。
(まぁ、今更よね)
ちらりとテラスを見れば、ガラスの向こうで今日も神官や職員達がこちらを見ていた。神獣を拝む者もいれば、好奇心丸出して眺めている者もいる。その中に必ず一人二人こちらを厳しい目で見ている神官がいて、彼らは菜月が神獣におかしなことをしないか見張っているのだ。
彼らにオルオの声は聞こえないので、一方的に菜月が話しかけているようにしか見えていない。まぁ、グリフォンの中でもリーダー格のアリィが実は怒っているなんて、知らない方が良いのかもしれないけれど。
(これ以上怒らせないように伝えたほうが良いのかしら。でもねぇ……)
自分が彼らの言葉を理解できると同時に知られてしまう。神殿の一部から良い印象を持たれていないこの状況を鑑みても、それは避けるべきだろう。何よりあれこれ詮索されるのは好きじゃない。
『ナツキに会えば、アリィ機嫌良くなる』
「うん。嬉しいけど、ごめんね」
『…………』
(あぁ……)
先程まで期限よさそうにパタパタと動いていたしっぽがぺたりと下に垂れ下がってしまった。でもこればかりは菜月の意志ではどうしようもない。今こうして数十分オルオに会うだけで神殿は大騒ぎになったのだ。菜月も早く研修を終えて家に帰るという目的がある以上、神殿とは揉めたくない。
(ごめんね……)
いつも元気なオルオのしゅんとした姿に心が痛む。せめて会うことのできる今だけは精一杯かまってあげようと、菜月は優しく彼の体を撫でた。
けれどその励ましは失敗に終わったのかもしれない。菜月がそう思ったのは翌日の昼、オルオが中庭に現れなかった時だった。
「そうですか、オルオ様が……」
昼休みが終わり、午後の講義が始まる前に菜月は今日のことをランスロットに報告していた。グリフォンのことで何か気づいたら些細なことでも報告する。これがオルオとの昼休みを許可する条件の一つでもあった。
「昨日、何かいつもと違うことがありましたか?」
「いえ……。あ、ちょっと元気がなかった気がしましたが……」
流石にそれが自分のせいかもしれないとは言えなかったが、だからと言って何も気づかなかったと嘘はつけない。ランスロットはそれ以上追求せずに、分りましたとだけ答えた。
けれど話はそれだけでは終わらなかった。午後の講義を始めて三十分も経たない内に、いつも菜月を監視しに来ていた神官の一人が講義室に飛び込んできたのだ。
「失礼します! ランスロット様、至急ご報告したいことが!」
「……どうぞ」
昼休みになる度に自分のことを疑うような目で見てきた相手が、焦りと不安を隠せない表情で立っている。それを見た菜月は、ざまぁみろぐらい心の中で呟いても良かったのかもしれない。けれどそうは思えなかった。それ程彼の表情は切迫していたのだ。むしろ教材に用いていた書物を閉じると同時に溜息をついたランスロットの態度を、同僚なのに冷たいのでは? と思ってしまう程だった。
「グリフォンが……、オルオ様の容体がおかしいのです」
神獣に予期せぬ異変。それがどれ程大変なことなのか、部外者の菜月でも分かる。対してランスロットが返した反応は少し眉を動かしただけだ。
「具体的にどのような?」
「あ、あの……、昼前からぐったりと横になったまま動く様子がなく……」
「それで? 今はどのような対策を?」
「傍で様子を見ようとしても、他のグリフォン達が我々を威嚇して近づけません」
「娘たちも同様だと?」
「はい。彼女達には聞き取りをしましたが、特にそれまで変わった様子はなかったと……。朝食も神殿で用意したものですから、おかしなものが混入されたとは考えにくく。それで、至急神官長と各枢機卿にご報告を……」
「昼前と言うなら、少なくとも既に二・三時間は経っているのでしょう? 貴方の“至急”というのは随分と余裕があるのですね」
「……申し訳ございません」
拳を握りこみ、彼が頭を下げる。だが、その目はすぐに普段よりも厳しいものとなって菜月を見据えた。
「講義中とは思いますが、なにぶん緊急事態なもので。彼女にも話を聞きたいのですがよろしいでしょうか?」
ちらりとランスロットが菜月を見る。少女達に問題がないと言うのなら、当然疑いはこちらにも向くだろうと思っていた。何せ、グリフォンに近づける人間は限られている。その中で最も身元が不確かなのは一般人である菜月なのだから。
「どうぞ。ただし話ならこの場で。私も同席します」
「しかしそれは……」
「彼女を神殿に入れたのは私。そして彼女を認め、逗留することを許したのは神官長です。彼女の扱いについて不満があると言うのなら、神官長を通してください」
「……分かりました」
是の返事をしたものの、不満だらけだとその顔には書かれている。最も疑わしい相手が神殿のツートップに守られているのだ。菜月が同情するのもおかしな話だが、彼の心境は理解できた。
その神官に聞かれたことは、講義前にランスロットに話したこととほぼ同じだった。昨日何か変わったことはなかったか。気づいたことはないか。最後に何か食べさせていないかとの質問があったが、ランスロットから神殿が食事を用意していることを聞かされていたので勿論そんなことはしていない。それどころか、彼女達が禊や食事制限をしていることを知り、オルオと過ごすようになってから肉や魚類の食事も極力避けていた。
何より菜月とオルオの昼の様子を監視していたのはこの神官だ。自分がおかしなことをしてないのは貴方も見ていたのでは? と言葉を返せば、彼も渋々頷くしかなかった。
「これから神官長の判断を仰ぐことになりますが、しばらく勝手な行動は控えていただきます」
「……分かりました」
やはり疑いは晴れていないらしい。どこからどこまでが“勝手な行動”に含まれるのか、詳しく聞きたかったが止めておいた。この場で問えば彼の機嫌をますます損ねるだけだし、彼に聞くよりランスロットに仔細を確認した方が行動制限の範囲も優しくなりそうな気がしたからだ。
鼻息荒く神官が出て行くと、ランスロットは再びため息をついた。
「講義どころではなくなってしまいましたね」
「あの……」
「僕は神官長の所へ行ってきます。ナツキさんは部屋に戻っていてください。今日はそこから出ないように。今後の予定は決まり次第お伝えに行きます」
「分かりました」
有無を言わせず、必要なことだけ言うとランスロットは足早に講義室を去ってしまった。その背中を見送りながら、ナツキは一つ後悔していた。
(オルオの容態、もっと詳しく聞いておけば良かった……)
容体がおかしい、としか彼は言ってくれなかった。それが今すぐ医者に見せる必要があるほど悪いのか、それとも数日休めば治るものなのか、情報も知識もない菜月では見当もつかない。
(タクト……、いるかな……)
ここの所、タクトは王都でも細々とギルドの仕事をしているらしく、今日も朝から出かけていた。周囲に疑われているせいか、それともオルオが心配なせいか、毎日眺めている筈のタクトの顔が今すぐ見たくなっていた。




