第7話 声を、上げて
馬を駆けさせている間、私は何も考えていなかった。
考えていない、というのは正確ではない。考えるのが追いつかなかった、という方が近い。
頬を切る秋の風が冷たくて、目尻が滲む。けれど涙ではない。風だ。風のせいだ。
魔導騎士団本部の門前で、私は馬から降りた。降りる動作が、自分の体ではないみたいにぎこちなかった。膝が震えていた。膝が震えるという経験を、私は今日初めてした。
衛兵に名乗ろうとしたとき、門の中から、ちょうど、ヤコブさんが出てくるところだった。
黒い制服。包帯はもう取れていた。鋭い目つき。私を見つけた瞬間、その目つきが、ほんのわずかに、揺れた。
「ティルダ、嬢」
「あの」
声を出そうとした。出そうとしたら、出たのは、声ではなかった。
息が詰まった。
詰まった息の奥で、何か固いものが、せり上がってくる。喉の奥でそれは形を持たない塊で、舌の根のあたりで、ぐっと押し戻される。
「父が」
「父?」
「父が、毒、を」
そこまで言って、私の声は崩れた。
「半年。半年です。私、毎日見てた。父の頬。痩せていく。気づいてた。ううん、気づいて、なかった。気づいて、ない、ことにしてた」
言葉が、舌の上から落ちていく。落ちていくのを拾えない。
「フェリツァの薬。私、確認しなかった。一度も。なぜ。なぜって。だって、だって私は」
声が裏返った。
「私は、人より、杖を、見る、ような」
ふざけるな、と頭の中で誰かが言った。声は私の声だった。
ふざけるな、私。
「ふざけ。違う。ふざけてたのは私だ。マイペースで通してたのは私だ。父さんがやつれていく速度を、半年間、見ない訓練してたのは私で、私で、私で」
頭蓋骨の内側が痺れた。後頭部の付け根のあたりに、知らない冷たさが走った。
「フェリツァの薬の包み紙の色が、半年前と先月で違ってたの、私、見てたんです、見てたのに、何も、思わな」
最後の言葉の語尾が、消えた。
消えた語尾の代わりに、肩甲骨の間の、いつもなら何も感じない場所に、ぞわりと冷たいものが這い上がってきた。
ヤコブさんが、私の腕に手を伸ばしかけた。
伸ばしかけて、止めた。
止めて、もう一度、伸ばした。
冷たいはずの大きな手が、私の肩に触れた瞬間、私の中で、もう一段深いところで、堰が外れた。
「うっ」
声が漏れた。
「あ、う、ぅ」
漏れた声は、人間の言葉ではなかった。獣の声でも、子どもの声でもなかった。ただの、行き場のない音だった。
私は十八年間、こんな音を自分が出せるとは知らなかった。
ヤコブさんは、私の肩を引き寄せた。
引き寄せて、私の顔を、自分の黒い制服の胸元に押し当てさせた。
「声を、出していい」
低い声が、頭の上で言った。
「ここでは誰も見ていない。出していい」
私は、出した。
声を上げた。
上げた声が、喉の奥から、自分の知らない深さの場所から、引きずり出されてきた。十八年分、いや、もっとそれより前からずっと、誰にも見せずに押し込めていた何かが、ようやく外に出てきた。
私の手は、無意識に、ヤコブさんの制服の胸元を握りしめていた。固く、固く、皺になるくらいに。彼は何も言わなかった。ただ、私の背中に、片手だけ、軽く添えていた。
どれくらい、そうしていたのか、わからなかった。
外の風が止んで、空の色が少し変わった頃、私はようやく息を整えた。
「……ご、めん、なさい」
「謝るな」
「制服を、汚し、」
「謝るな」
二度、同じ言葉だった。
私は、ゆっくりと顔を上げた。
ヤコブさんの顔は、いつもの通り、ほとんど表情がなかった。ほとんど、というのは、よく見ると、目の縁のあたりが、ほんの少しだけ、赤かったから。
「父上のことは、こちらで動く。あの薬師の証言と、薬の成分鑑定。それから、フェリツァ・スコゲンの王都での行動記録。三日あれば集まる」
「私が、やります」
「あなたは、お父上のそばにいてください」
「で、でも、」
「あなたが、いま、お父上のそばにいないことが、フェリツァに気づかれたら、危険だ」
私は、息を呑んだ。
そうだ。今この瞬間も、フェリツァは父の枕元にいる。父の薬を、また「飲ませて」いる。
「私、戻ります、すぐに」
「俺の馬車を出させる。馬では戻り道で潰れる」
「でも、」
「いいから」
ヤコブさんは、私の肩から手を離した。離して、自分の指先を、なぜか、一度、強く握りしめた。それから、その手で、私の頬の涙を、拭った。
拭い方が、ものすごく、ぎこちなかった。
たぶん、人の涙を拭う、という動作を、生まれて初めてやっているのだろう、と私は思った。思った瞬間に、また、新しい涙が、ひと粒だけ、こぼれた。
ヤコブさんは、それも、もう一度拭った。
「ティルダ嬢」
「はい」
「俺はあなたの味方だ。十年前から、ずっと」
私は、頷いた。
頷くことしか、できなかった。
胸のあたりが、痛かった。
痛いのに、痛いだけではなかった。
たぶん、これは、胃の不調ではないのだろう、と、私はようやく、気づき始めていた。




