第6話 黒い斑点
ヤコブさんが紹介してくれた薬師は、王都の南、職人街の外れに小さな店を構える老婆だった。
老婆は父の手首と顎の下の血管を診て、舌を見て、爪の色を見て、それから、三十秒ほど黙って父の顔を眺めていた。
「お嬢さん、ちょっと」
老婆は私を奥の戸口へ呼んだ。
「お父上の薬は、誰が選んでいる」
「父の従妹の子、私の従妹です。フェリツァ・スコゲン。男爵家の養女で、半年ほど前から看病に来てくれています」
「薬はその子が持ってくる?」
「ええ、毎週、王都の薬種問屋から仕入れたものを」
老婆は、それきり黙った。
それから、自分のローブのポケットから、小さな紙包みを取り出した。
「お父上の枕元に置いてあった、これと同じやつだ。胃の薬と聞かされたかね」
「はい」
「これは、胃の薬じゃない」
私の視界の端で、何かが、ゆっくりと、白く明滅した。
「鎮痛と眠気の作用が強い、軽い麻薬の一種だ。少量なら誰も死なない。けれど、毎日少しずつ、半年も続ければ、人ひとりの内臓は静かに壊れていく。壊れたあとで死ぬ。死因は『老衰』としか書かれない」
「……」
「お嬢さん、聞いているか」
「聞いて、います」
「誰が」
私は答えなかった。答える必要が、なかった。
◇◇◇
屋敷に戻る馬車の中で、私はずっと、自分の指先を見ていた。
中指の腹で薬指の関節を辿る、いつもの確認の癖。今日の私は、何度確認しても、握りが浅い、というような問題ではなかった。
握る指の感覚そのものが、遠かった。
馬車が屋敷の門をくぐったとき、玄関の階段の下で、フェリツァが私を待っていた。
栗色の髪に、薄紅のショール。可憐な顔に、心配そうな表情。
「お姉様、おかえりなさい。お父様、今日もよく眠っていらっしゃいますよ。お薬、ちゃんと飲ませました」
私は、馬車を降りた。
降りて、フェリツァの前に立った。
フェリツァの目を、私はたぶん、生まれて初めて、まっすぐに見たと思う。今までは、見ているようで、見ていなかった。見る必要を感じていなかった。
フェリツァの瞳の奥には、可憐な少女の顔の裏側にある、小さな、けれど決して小さくない、計算の色があった。
「フェリツァ」
「はい、お姉様」
「お薬、いつも、ありがとう」
私の声は、私の知らない私の声だった。穏やかで、丁寧で、何の感情もこもっていなかった。
フェリツァは、安心した顔で、笑った。
私はその笑顔を見ながら、屋敷の中に入った。
入って、まっすぐに、父の書斎へ向かった。
父の書斎の机の引き出しの一番奥に、ハシェル工房の権利書類が入っているはずだった。父が私の十八歳の誕生日に、譲ると言って準備していた書類。
引き出しを開けた。
権利書類があるはずの場所に、別の書類が入っていた。
『ハシェル工房 経営権移譲書』
譲渡先 ── フェリツァ・スコゲン
譲渡日付は、三日前。
筆跡は、父の字に、よく、似せてあった。けれど、ハネの最後の流し方が、父のものではなかった。私だけが知っている、父の手癖のひとつ。
私は書類を、ゆっくりと、机の上に戻した。
戻して、引き出しを閉めた。
閉めて、椅子に座った。
座ってから、私は、息のしかたを少し忘れた。
胸のあたりが、なんというか、いつもの「胃の不調」とは違う、もっと深いところで詰まっていた。喉の奥に、固い小さな塊があって、それが少しずつ、せり上がってくる感じ。
私はずっと、自分のことをマイペースだと思っていた。人より杖を見て、感情に鈍くて、優先順位を間違えない人間だと思っていた。
たぶん違った。
私はただ、ずっと、見たくないものを見ない訓練をしてきただけだった。
学園で婚約者がフェリツァに寄り添っていく様子を、見ないようにしていた。父の頬がやつれていく速度を、見ないようにしていた。フェリツァが工房を出入りする頻度が、半年で三倍になったことを、見ないようにしていた。
見ないことで、私は、自分の世界を狭く、けれど安全に保っていた。
今、その安全が、机の上の偽造書類の上で、音もなく、崩れ落ちていた。
書斎の窓の外で、霜の朝の最初の鳥が鳴いた。
私は椅子から立ち上がった。
立ち上がって、書斎を出た。
廊下を歩いて、玄関を出て、馬を一頭だけ引かせた。
行き先は、王都の北。魔導騎士団の本部。
行き先を、考えていたわけではなかった。馬の手綱を握ったとき、私の手は、勝手にその方角を選んでいた。
なぜ、と問う余裕は、もう、なかった。




