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婚約破棄、結構です。ただし、私の杖を返してから言ってください  作者: 九葉(くずは)


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第5話 ふたり、ひとつの作業台

回収した杖剣の入れ替え作業のため、ヤコブ隊長は週に二度、ハシェル工房にやってくることになった。


「魔導騎士団の正式依頼です」と隊長は最初に書面を出した。書面には印璽と数字と納期が、ぴしりと並んでいた。父はそれを見て「ふむ」と頷き、私を見て「お前にやらせる」と言って、奥の部屋に引っ込んだ。


最近の父は、午後になると必ず横になる。


私はそのことを、まだ誰にも口にしていない。


◇◇◇


工房の作業台は二人並んで座るには少しだけ狭かった。


ヤコブ隊長はあぐらの座り方が下手だった。長身の人にはありがちなことらしい。膝が作業台の脚に当たって、最初の日は何度かぶつけて、何度目かでようやく座り方を見つけたとき、私は思わず吹き出してしまった。


「……何か」


「いえ、何も」


「いま、笑った」


「気のせいです」


「気のせいではない」


「気のせい……いえ、笑いました。少し」


ヤコブ隊長は、ひとつ瞬きをしてから黙った。


そして、目を逸らして、自分の道具袋を開けた。


道具袋の中には、隊長が普段使っている、あの杖剣があった。樫の節を活かした柄頭、黒革巻きの柄、よく手入れされた刃。十年使っているとは思えないほど、よく磨かれていた。


「あの」


「はい」


「それ、見せてもらってもいいですか」


隊長は無言で杖剣を差し出してきた。


私は両手で受け取り、まず重さを量った。次に、柄を握ってみた。指の隙間に、ほんの少しだけ、革の摩耗の癖があった。十年分の握りの跡だ。私の手のかたちには合わない。けれど、誰かの手のかたちには、ぴったり合うようになっている。


「……手入れが、いいですね」


「あなたの作品だから」


「いえ、私はもう、これを十年前に作ったときの自分のことは、ほとんど覚えていなくて」


「覚えていなくていい」


「え」


「覚えていてほしいわけではない。ただ、ずっと、使っていました」


私は、杖剣の柄を、もう一度、握り直した。


握り直して、作業台に静かに置いた。


それから、自分の作業箱から、新しい樫の芯材を取り出した。


「あの、ヤコブ様」


「ヤコブでいい」


「では、ヤコブ様」


「敬称を取れと言った」


「では……ヤコブ、さん」


隊長は、何か言いかけて、結局言わなかった。


私は芯材を構え、彫刻刀を握った。


「あなたの十年分の握りの癖を、新しい一本に写してみたいのですが、いいですか」


「……それは」


「贈り物ではありません。研究です。あなたの杖剣はもう寿命に近いので、後継機を作る必要があります。同じ握りで馴染ませるためには、私があなたの手を、何度か触らせていただくことになります」


ヤコブさんの表情は変わらなかった。


ただ、あぐらを組み直そうとして、また膝を作業台にぶつけた。


「触っても」


「失礼します」


私は彼の右手を取った。手は思っていたより大きく、思っていたより少しだけ冷たかった。指の節が固くて、剣の握りで硬くなった皮の場所が、私の予想とほぼ寸分違わなかった。


「親指の腹がここに当たるんですね。ふむ」


「ふむ」


「人差し指の第二関節は浮かせる癖。中指で支える型」


「ふむ」


「あの、さっきからずっと『ふむ』しか言っていらっしゃらないのですが」


「……」


ヤコブさんの、左の耳の後ろのあたりが、ほんのわずかに脈打っていた。私の彫刻刀の先がたまたまそこに向いていなければ、たぶん、誰にも気づかれずに済む種類の脈の打ち方だった。


私はその赤さを、なぜか、芯材の中央に、こっそり書き写してみたくなった。彫刻刀の先で。書き写したところで、誰にも見えないただの掠り傷にしかならないけれど、なんとなく、書き写したかった。


書き写さなかった。


代わりに、私は彼の手のひらを、もう一度、ゆっくり開かせた。


そのとき、ヤコブさんが、低い声で言った。


「ティルダ嬢」


「はい」


「あなたの父上の、お加減は」


私の彫刻刀が、止まった。


止まった、その止まり方を、隊長は見ていた。たぶん、見ていなかったふりをしたかったのだろうけれど、見ていた。


「……午後は、横になっています。最近、ずっと」


「医師は」


「来ています。けれど、はっきりとした診断は、まだ」


「俺の知る薬師がいる。よければ、紹介する」


私は、手の中の芯材を見ていた。芯材の節の中に、小さな黒い斑点があった。これは普段なら捨てる芯材だ。けれど今日はなぜか、捨てる気になれなかった。


「お願い、します」


口に出した自分の声が、自分でも、思っていたよりずっと細かった。


ヤコブさんは、何も言わずに、自分の手のひらを、もう一度、私の前に差し出した。続きをやれ、というように。


私は、続きを始めた。


工房の窓の外で、銀木犀がもう散り終えて、代わりに、霜の匂いがし始めていた。

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