第3話 帰る場所の、煤けた天井
学園に荷物を取りに戻り、その日のうちに馬車を手配した。
王都の北、貴族街の外れにあるハシェル伯爵家まで、馬車で半日の距離。道中、私は窓の外を眺めるのも忘れて、膝の上で指を動かし続けていた。
中指の先で薬指の腹を押す。次に親指で人差し指の関節を辿る。これは父に教わった握りの確認の癖だ。緊張すると無意識に出る。
今日の私は、何度確認しても、握りが少しだけ浅い。
なぜだろう、と考えて、すぐに考えるのをやめた。
夕暮れに屋敷の門が見えた頃、空はもう紅く落ちていた。
工房の煙突から、いつも上がっているはずの細い煙が、今日は出ていなかった。
私は馬車を降りて、玄関ではなく、まっすぐ工房の戸の方へ歩いた。
「父さん」
戸を叩く前に、声が出た。
中から返事はなかった。
戸を押すと、少しだけ開いた。父の工房は、いつでも誰でも入れる場所だった。父はそういう人だった。閉じた戸の向こうに何かを隠すような器用さは、持っていなかった。
中に入る。
見慣れた煤けた天井。磨り減った作業台。芯材の削り屑が床に薄く積もっていて、けれど積もりすぎていた。三日分くらいだ。父は毎朝、最初に床を掃く人なのに。
奥の作業椅子に、父の背中が見えた。
「父さん、ただいま、戻りました」
声をかけて、半歩近づいて、私はようやく気づいた。
父の背中が、思っていたより、だいぶ細かった。
「……ティルダか」
振り向いた父の顔は、私が学園に入る前に見た顔より、二回りほど痩せていた。頬の骨が薄い影を作っていた。手の甲の血管が浮き上がっていた。
私は、立ったまま動けなかった。膝の裏側だけが、おかしな具合に固まっていた。
「父さん、いつから」
「いつから、というほどのことではない。秋口に少し胃を悪くしてな。フェリツァが看病に来てくれている。よくしてもらっている」
フェリツァ。
その名前が、夕方の冷たい風みたいに、工房の中を一度よぎった。
「あの子は、優しい子だ」
父は、言った。
私は、何も言えなかった。
なんというか、こういう時に何を言えばいいのかが、ずっと前から、私にはわからない。「父さん大丈夫ですか」と聞けば「大丈夫だ」と返るに決まっている。「医者は何と」と聞けば「ただの胃の不調だ」と返るに決まっている。父はそういう人で、私はそういう父の娘だ。
だから私は、いつもの通りにした。
つまり、無言で作業台に近づいて、父が触っていた芯材を手に取った。樫。よく乾いている。けれど節の処理が、いつもの父の仕事より、ほんの少しだけ甘い。芯材を持つ指先に、力が入りきっていない人の癖だ。
「父さん」
「ん」
「節の落とし方、私が引き継いでもいいですか」
父は黙っていた。窓辺の埃が、ひと粒、光のなかを横切った。
それから、ふっと、息を吐くように笑った。
「お前も、大きくなったな」
私は何も言わずに椅子を引き、父の隣に腰を下ろした。
工房の窓の外で、銀木犀が散る音がした。聞こえるはずのない音だった。たぶん私の耳が、勝手に音を作っていたのだと思う。
その夜、屋敷に戻って、私は自室の窓辺に立った。
書類机の上には、午後に届いた、王宮からの婚約破棄の正式書面が置かれていた。
その隣に、一通、別の封筒があった。
宛名は「ハシェル工房 御中」。差出人の名前は、見たことのない字だった。けれど蝋の封印には、王立魔導騎士団第一隊の徽章。
私は封筒を開けた。
中には、短い手紙が一枚。
『杖剣の検査、無事に完了。暴発の懸念は除去できた。
礼を、改めて伝えたい。
近日、貴工房を訪ねる許しを乞う。
ヤコブ・ヴェルクハイム』
文字は、想像していたよりずっと丁寧だった。
私は手紙を、書類机の上で何度か裏返した。裏返してから、なぜそんなことをしたのか自分でもよくわからなくなって、結局、机の引き出しの一番手前にしまった。
引き出しを閉めるとき、指先がほんの少しだけ震えていた。
たぶん、ずっと馬車に乗っていたせいで、指が冷えているのだろうと、私は自分に言い聞かせた。
工房の煤けた天井を、もう一度、思い出していた。
父さん、と私は心の中で呼んだ。
呼んでみて、その呼び方が、自分でも知らないうちに、ずっと前より少しだけ、震えていることに、私は気づかないふりをした。




