第2話 あなたの杖を、十年使っています
黒い制服の男は、私の三歩手前で立ち止まった。
近くで見ると、思っていたより背が高かった。私のつむじが、ちょうど相手の鎖骨のあたりにくる。鎖骨の上のえりもとには、王立魔導騎士団第一隊の銀の徽章。隊長章だ。
「ハシェル工房の、ティルダ嬢」
低い声だった。砂利を踏むような、と書くと詩的すぎるから言わない。とにかく、ざらっとしていた。
「はい」
「そちらの王子殿下の杖剣の暴発の件、まことか」
ヴァルダー様が「な、なんだお前は!」と声を上げかけたが、男はそちらを見もしなかった。
私は少し考えた。考えてから、頷く。
「まことです。ただ正確には、必ず暴発するのではなく、暴発する確率がここ三ヶ月で八割を超えたという話です」
「八割」
「鞘から抜く動作の角度と、月光石の結晶軸の位置関係で、たまに八割が九割五分になります」
「九割五分」
男はもう一度繰り返した。それから、なんというか、表情がほとんど変わらないまま、ほんの少しだけ片方の眉を上げた。私はその眉の動きを観察した。観察してしまった。たぶんこの人は、表情筋が私よりさらに不器用だ。
「殿下。その杖剣をこちらへ。預からせていただく」
「お、お前ごときが王族の佩剣に……」
「魔導騎士団第一隊長、ヤコブ・ヴェルクハイム。爆発物の管理は当方の管轄です。ハシェル嬢の見立てに異論があれば後日王宮にて承りましょう」
冷たい敬語だった。冷たいというより、温度がない。ただ事実を積んでいるだけの言い方。フェリツァの目に、ほんの一瞬、私が初めて見るような色が走った。
それは、たぶん、計算の色だった。
ヴァルダー様は二度ほど唇を噛んでから、舌打ちをして佩剣を外した。鞘ごとヤコブ隊長の手に渡るとき、紫水晶のグリップが日の光を跳ね返して、私のローブの袖に小さな紫の点を作った。
「フェリツァ、行くぞ」
「は……はい、ヴァルダー様」
二人は背を向けた。背を向ける直前、フェリツァが私の方を一度だけ振り返った。瞳がうるんでいた。けれど唇は微かに笑っていた。器用な顔をする子だ、と私はもう一度思った。
中庭に、私とヤコブ隊長だけが残った。
銀木犀がもう一度、私たちの足元に散った。
「……ティルダ嬢」
「はい」
「お礼を、申し上げる」
私は、目を瞬いた。
「お礼?」
「あなたの杖剣がなければ、殿下は今ごろ手首から先を失っていた」
「ああ、いえ。それはどちらかというと自業自得の範疇で、私はただ商品の管理上申し上げた、というだけの話で……」
言いかけて、私は気づいた。ヤコブ隊長の腰に下がっている杖剣のことに。
正確には、さっきから気づいていた。気づいていたけれど、考えるのが少し怖かったから、たぶん意識から外していた。
「あの」
「はい」
「あなたが今お持ちのその杖。柄頭の樫の節の活かし方が、私の家の流儀そのものなのですが」
ヤコブ隊長は黙っていた。
「失礼ですが、どこで……」
「十年前」
「えっ」
「十年前です」
風が止んだ。
「俺が十五のとき、父が魔物に殺された。葬儀の三日後、ハシェル工房の前に座り込んでいたところで、八つくらいの少女が出てきて、これあげる、と言った」
「……」
「『たぶんあなたに合うと思う、なんとなく』と」
私の頭の中で、何かがゆっくりと、ゆっくりと、回転を始めた。
八歳の頃の私は、たしかに、父の工房にひっきりなしに出入りしていた。試作と称して芯材を勝手に削っていた。失敗作と呼ぶのも憚られる、ただの木と石と糸の塊を、ときどき外に持ち出して、近所の犬や猫や、たまに人間にも、押しつけていた覚えがある。誰かにあげたかもしれない。たくさんいすぎて、ひとりひとりは覚えていない。
「あなたの杖を」
ヤコブ隊長の声が、ほんのわずかに低くなった。
「十年、使っています」
私は、何か返事をしようとして、口を開けた。
開けた口から、何も出てこなかった。
胃のあたりが、また少し、重くなった。
たぶん、まだ昼を食べていないせいだ、と私は自分に言い聞かせた。




