第10話 最初の使い手
冬の初めの、霜の降りる朝。
ハシェル工房の作業台の上に、新しい一本の杖剣が、置かれていた。
樫の節を活かした柄頭。黒革巻きの柄。月光石の調合は、これまでで最も慎重に、最も精度を上げて仕上げた。グリップの紫水晶は、深い夜のような、ほんの少しだけ青を含んだ色のものを選んだ。
私は、出来上がったその一本を、息を詰めて見下ろしていた。
「父さん」
奥の作業椅子で、薬師の老婆の処方を続けている父に、声をかける。
父は、まだ痩せている。けれど秋の終わりよりは、頬の肉が、ほんの少しだけ戻っている。老婆の処方が効いているのと、本当の意味で安心して眠れる夜が、ようやく、戻ってきたから。
「ふむ」
「これ、納品します」
「どこへ」
「魔導騎士団第一隊」
「ふむ」
「あの」
「ふむ」
「父さん、その『ふむ』、私が出すやつと、同じですよね」
「ふむ」
父は、そう言って、たぶん、半年ぶりに、ほんのわずかに、笑った気がした。
◇◇◇
魔導騎士団本部の、訓練場の隅。
ヤコブさんは、いつもの黒い制服のまま、訓練場の柵にもたれて立っていた。
私が近づくと、彼の目が、こちらを向いた。鋭い目つき。けれど、初めて学園の中庭で見たときよりも、ほんの少しだけ、その鋭さの中に、何か、別の温度が混ざっている。
「これ」
私は、布で包んだ杖剣を、両手で、差し出した。
「あなたの十年使った杖の、後継機です」
ヤコブさんは、布を、ゆっくりと、開いた。
開いて、新しい杖剣を、両手で、受け取った。
握った瞬間、彼の指の節の硬さが、ぴたりと、柄の革巻きの形に、収まった。私が、何度も、何度も、彼の手を「触らせていただきます」と言って測った、あの位置に。
「……合っている」
「合っているはずです」
「ぴたりと」
「ぴたりと、です」
ヤコブさんは、両手のなかの杖剣を、ただじっと見ていた。
それから、低い声で、言った。
「最初の使い手は、俺で、いいのだろうか」
「あなた以外、いません」
「俺で、いいのか」
「あなたしか、いません」
ヤコブさんは、もう一度、杖剣を、見た。それから、ゆっくりと、それを、自分の腰に下げた。
腰に下げた瞬間、彼の体の重心が、ほんの少しだけ、変わったように見えた。
たぶん、十年分の重さが、少しだけ、軽くなったのだろう、と、私は、思った。
「ティルダ」
初めて、彼が、嬢をつけずに、私の名前を呼んだ。
「はい」
「礼を、言いたい」
「いえ、お代金は後日請求書を、」
「そういう礼ではない」
「では、何の礼ですか」
ヤコブさんは、答えなかった。
答えなかったまま、私の前に、半歩、近づいた。半歩近づくと、私のつむじが、ちょうど、彼の鎖骨のあたりに来た。最初に学園の中庭で会ったときと、同じ距離。
ただ、空気の温度が、まったく違った。
「十年前」
ヤコブさんは、言った。
「父を魔物に殺されたあの日、俺は、世界の全部が、もう、終わったのだと思っていた」
「……」
「あなたが、八つの少女が、ふらりと工房から出てきて、これあげる、と言った。たぶんあなたに合うと思う、なんとなく、と言った。あの一言で、俺の十年は、生きていける場所を見つけた」
「……」
「俺は、あなたに、ずっと、礼を、言いたかった。けれど、あなたは、覚えていないと言った。覚えていなくていい、と俺は言った。けれど、本当は、覚えていてほしかった」
「……」
「いま、覚えていてほしい」
私の胸の中で、ずっと「胃の不調」と呼ばれていたものが、いま、確かに、別の名前を、得た。
得てしまった。
「あの」
私は、やっと、口を開いた。
「私、こういうのに、本当に、慣れていなくて」
「知っている」
「だから、たぶん、うまく、言葉に、できないんですけれど」
「ふむ」
「なんというか」
「ふむ」
「胃の、あたりが」
「胃の」
「いえ、違います。胃ではなくて、もっと、奥の、なんというか、ここから少し上の方、肋骨の裏側のあたりに、なにか、温かいものが、ずっと、ある感じが、して」
「ふむ」
「で、あなたを見ると、それが、少し、強くなる感じが、して」
「ふむ」
「これは、たぶん」
「たぶん」
「恋、というやつです」
口に出した瞬間、私の頬に、たぶん、生まれて初めての色が、上った。
ヤコブさんの、奥歯の裏側が一度きつく噛み合った気配がして、それから喉仏の手前の皮膚が、ゆっくりと上下した。
私たちは、無言で立っていた。風の通り道だけが、二人のあいだを往復していた。
無言のまま、訓練場の柵越しに、王都の冬の薄い陽が、私たち二人の上に、落ちていた。
「ティルダ」
「はい」
「俺も、たぶん、そうです」
「たぶん?」
「いや、確実に、そうです」
「あなた、表現が、不器用ですね」
「あなたほどでは」
「ふむ」
「ふむ」
私たちは、もう一度、ふむ、を交換した。
それから、ヤコブさんが、ほんの少しだけ、私の方に、顔を、近づけた。
近づけて、止まった。
止まって、私の頬を、人差し指の背で、軽く、撫でた。
撫で方が、相変わらず、ものすごく、ぎこちなかった。
「あの」
「はい」
「キス、というのは、少し先で、いいですか」
「は、はい、お願い、します」
「俺も、慣れていないので」
「私も」
「では」
「では」
私たちは、もう一度、訓練場の柵にもたれて、並んで、立った。
工房の窓の外で、霜の朝の最初の鳥が鳴いた、と思ったけれど、たぶん、私の耳の錯覚だった。
ここは王都の魔導騎士団本部で、工房の窓の外ではなかった。
それでも、私には、なぜか、その鳥の声が、聞こえた気がした。
聞こえた気のままで、いい、と、私は思った。
世界には、私の知らないことが、たくさん、ある。
これからは、少しずつ、知っていけばいい。
ヤコブさんの腰の杖剣が、新しい主の重心の上で、ほんのわずかに、揺れた。
私は、その揺れの幅を、職人として、目で測った。
測ってから、ふっと、笑った。
笑った私を、ヤコブさんが、見て、今度は、目を、逸らさなかった。
逸らさない、というだけで、私の中の、あの「胃ではない、もっと奥の温かいもの」が、もう一段、温かくなった。
これが、たぶん、私の、本当の、はじまりだった。
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