第1話 婚約破棄、結構です
「ティルダ・ハシェル! 貴様との婚約は、本日をもって破棄する!」
王立学園の中庭、銀木犀が散る午後の真ん中で、私は屈み込んでいた。
足元の花壇の縁、磨り減った敷石の隙間に、一本の小枝が落ちていた。たぶん樫だ。よく乾いている。芯材には向かないが、装飾の根付けにならいいかもしれない。指先で持ち上げて、断面を覗き込む。
「聞いているのか、ティルダ!」
ああ、と思う。聞いてはいた。聞いてはいたけれど、声が頭の上を通り過ぎていく感じで、内容のほうまでは届いていなかった。
立ち上がって、ようやく王子殿下の顔を見る。ヴァルダー様。私の婚約者。いや、いま「婚約は破棄する」と仰ったから、もう違うのか。
その腕に、可憐な栗色の少女がしがみついている。私の従妹のフェリツァだ。涙ぐんで、けれど唇の端だけがほんの少しだけ持ち上がっている。
なんというか。器用な顔をするな、と思った。
「お姉様……ごめんなさい。本当に……」
フェリツァの声が湿っていた。
「フェリツァのほうが、ずっと俺に懐いてくれる。お前のように本ばかり読んで、人の心を顧みない女ではない。婚約は今日限りだ。書面は後ほど送る」
人の心を顧みない、というのはたぶん事実だな、と私は思った。少なくとも私は、自分の心ですらあまり顧みていない。
ただひとつ、見過ごせないことがあった。
私は小枝をローブのポケットにしまい、ゆっくりと膝を折って礼をした。学園で習った通りの、教科書のように正しい角度で。
「承知しました。では、ヴァルダー様」
「なんだ」
「あなたが今お持ちのその杖、お返しいただけますか」
ヴァルダー様の動きが止まった。隣のフェリツァの瞬きも止まった。庭園の銀木犀が一片、私の肩の上に落ちて、微かな金木犀の従兄弟みたいな匂いがした。
「……は?」
「お腰の。佩剣の柄に組み込まれている、紫水晶のグリップの杖剣のことです」
私は指差す。本当は指差すのは礼儀作法上ぎりぎりだけれど、いまはもう婚約者ではないので少しだけ気が楽だった。
「あれは、私の作品です。十六歳のときの試作で、まだ正式に納品していないものです。父の工房から無断でお持ち出しになっているのは存じておりましたが、婚約者の手元にあるなら、まあ、いいかと思っていまして」
ヴァルダー様の頬が、ゆっくりと赤くなっていく。怒りなのか羞恥なのか、私にはあまり区別がつかない。たぶん両方なのだろう。器用な顔をするのは、フェリツァの専売特許ではないらしい。
「今となっては婚約者でもございませんので、所有権の根拠が消えました。あの杖剣の月光石の調合は、まだ最終段階に入っておりません。誤った魔力を流すと、最悪、暴発します」
「……おまえ、何を、」
「ですから、お返しいただけますかと申し上げました」
私はもう一度、丁寧にお辞儀をした。
フェリツァが、すがるような目で私を見上げる。
「お姉様、いま、そんな話を……?」
「いま、しなければいつするんですか?」
口に出してから、自分の言葉が思ったより冷たい温度を含んでいたことに気づいた。
……いえ、違いますね。冷たいのではない。私はただ、優先順位を間違えていないだけだ。
婚約破棄は紙切れ一枚で済む。けれどあの杖剣は、王子殿下の腰で目の前にある。腰でぶら下がっているということは、抜き差しのたびに芯材に微細な振動が走っているということで、振動は月光石の結晶構造を少しずつ歪ませていて、
「歪みが許容値を超えると、抜いた瞬間に持ち主の手首から先がなくなりますので」
しん、と中庭が静まり返った。
ヴァルダー様の手が、無意識のように腰に触れた。触れた、その指先が、紫水晶のグリップの上で凍りついた。
風が吹いて、銀木犀がまたひとひら落ちた。
私はゆっくりとそれを目で追って、ふと、視線の先に、誰かが立っていることに気づいた。
中庭の入り口の柱の影。黒い騎士団の制服。長身。鋭い目つき。腰に下げた剣の柄には、私が一度だけ夢の中で組んだような、あるいは、ずっと昔、まだ父の工房で背伸びをして木屑にまみれていた頃に、誰かにあげた覚えがあるような、そんな、樫の節を活かした柄頭の杖剣。
「どなた、ですか」
私のつぶやきは、誰にも届かなかった。届かなかったはずなのに、その黒い人影はゆっくりと、こちらに向かって歩き出した。
ヴァルダー様の方ではなく。
フェリツァの方でもなく。
まっすぐに、私の方へ。
胃のあたりが、なぜか少しだけ重くなった。
たぶん、昼を抜いたせいだろうと私は思った。




