6-4
黒頁から帰還した香奏院の大広間は、まだ薄い朝靄に包まれていた。
その中心に置かれているのは、ヴァイオラが遺した一冊――ヴァイオレット・ノート。
「……この中に、まだ眠ってるんだね」
スペアが呟き、そっとノートの表紙に手を添える。
ローズマリーが香気の流れを読み取り、静かに頷いた。
「封香は消えている。あとは、解くだけだ」
香術陣が展開され、やわらかな光が満ちていく。
ページの隙間から、柔らかな香りの粒がこぼれ落ち、
やがて――それらは形を取り始めた。
「……ここ、どこ……?」
か細い声で目を開けたのは、ベンゾイン。
乳香のような淡い香りが、空間に広がる。
「香奏院……? ……戻ったの、かな」
その隣で、エレミが寝転んだまま足をパタパタさせる。
「ふああ……なんか、お菓子の香りが恋しいなぁ……」
スペアが小さく笑いながら答える。
「ちゃんと戻ってきたよ。二人とも――おかえり」
周囲では、次々と他の精油たちが姿を現していく。
封印されていた多くの仲間たち――
まだ戸惑いの中にありながらも、確かに“香って”いた。
第一班のパチュリとティーツリーが駆けつける。
「記録班、全員確認! 生命香、安定してます!」
ティーツリーが安堵の笑みを浮かべ、パチュリは静かに頷いた。
そこへ、白衣の袖をひるがえしながらジンジャーが現れる。
「おっと、観測データはばっちり取れてるよ。……ふふ、やっぱり混香はいいね」
その軽口にティーツリーが肩をすくめ、パチュリが苦笑する。
「……緊張感のない奴だな」
「だって、もう平和が戻ったんだろ?」
そのとき、空気がふたたび震える。
――濃密な甘香、冷ややかな白橙、そして琥珀の温もり。
「……ムスク、ネロリ、アンバー!」
スペアが名を呼ぶと、三つの光がゆっくりと人の姿を取った。
最初に笑ったのはムスクだった。
「ははっ……帰ってこれたのか、俺。
香りのない地獄ってやつは、もう二度とごめんだぜ」
その声に、ペッパーが肩を竦めて返す。
「お前の“地獄”は、大抵自分で作ってたろ」
次に、ネロリが静かに目を開けた。
「……またお前たちの混香を嗅ぐことになるとはね。
でも、これが“生きた香り”ってやつなんだな」
そして、アンバーが最後に穏やかに微笑んだ。
「君たちの香り……温かいね。
誰かを打ち消すためじゃなく、癒すために香っている」
スペアは一歩前へ出て、まっすぐに言った。
「人工香だった時より、今の君たちの香りの方がずっといい。
独りで輝くより、誰かと混ざる方が――ずっと素敵な香りになるよ」
ムスクが片眉を上げ、挑発的に笑う。
「……混ざる方が深みが出るって言ってたよな?
だったらスペア、まずは俺と香水結びを愉しもうか」
ネロリは小さくため息をついた。
「やれやれ……やっぱり反省はしてないんだね」
アンバーはそのやり取りを見て、目を細める。
「でも……悪くないね、この空気」
そのとき、ペッパーが腕を組みながら低く言った。
「今度は、道を間違えんなよ。
二度と、誰かの香りを封じるような真似はするな」
ムスクが苦笑しながら片手を上げた。
「へいへい、了解。俺はもう、奪うより混ざる方が性に合ってる」
ネロリは視線を逸らし、
「……たまには、理想を信じるのも悪くないね」
アンバーは小さく頷いた。
「僕らも、ようやく精油として還れたんだね」
その瞬間、香奏院全体に風が流れた。
ベンゾインとエレミを中心に、封印されていた他の精油たちも次々に香りを放ち、
広間はまるで再生の温室のように、あたたかく満ちていく。
スペアは小さく息を吐き、ノートを見上げた。
――ヴァイオラの記録が、もう動くことはない。
けれど、その表紙にほんの一瞬だけ、淡い紫の光が揺れた。
「……ありがとう、ヴァイオラ」
スペアの囁きに、風がやさしく応える。
香奏院に――“新しい香りの朝”が訪れた。




