1-7
午後の光が、淡く磨かれた床をすべっていた。
香奏院の廊下は、いつも花と香料の匂いが満ちている。
胸ポケットの中で、赤い薔薇がふわりと香った。
ゼラニウムから貰った――いや、半ば押しつけられた、あの薔薇だ。
捨てるのも悪い気がして、とりあえず胸に挿したまま歩いていた。
それが、後で面倒の火種になるとも知らずに。
「スペア?」
静かな声に振り向く。
廊下の端に、ラベンダーが立っていた。
手には小さな植木鉢とスコップ。
淡い紫の髪が光を透かして、春の空気そのものみたいにやわらかく揺れていた。
「……それ、どうしたの?」
「え? ああ、これ? ゼラニウムがくれて……」
言い終わる前に、ラベンダーの瞳がわずかに細くなった。
笑っているのに、空気が変わる。
やわらかな風の中に、ひと筋の刃を忍ばせたような冷たさだった。
「……そう。あいつが、ね。」
「な、なんかマズかったか?」
「うん、ちょっとね。」
ラベンダーはゆっくりと歩み寄り、俺の胸ポケットに指を伸ばした。
その動作はあまりに自然で、何も言えずに息を呑む。
彼の指先が薔薇に触れた瞬間、わずかに花びらが震えた。
「スペア、知らないんだ。」
彼は静かに微笑んだ。
「ゼラニウムが誰かに薔薇を渡すのって、“マーキング行為”なんだよ。」
「……マーキング?」
「そう。“この香りは僕のもの”って意味。
本人は優雅な顔して渡すけど、実際はかなり独占欲が強いんだ。」
「は……!? ちょ、ちょっと待て、それ普通にヤバいやつじゃん!?」
俺が慌てて胸ポケットを押さえると、ラベンダーはふわりと笑って薔薇を抜き取った。
指先に残った香りが、ひときわ濃く立ち上る。
「大丈夫。僕が処理してあげる。」
彼は花を軽く掲げて、窓の外へ放った。
陽光を受けて、真紅の花弁がきらめきながら風に散っていく。
その光景が妙に美しくて、目が離せなかった。
「これで、もう“誰のもの”でもないね。」
ラベンダーの声は、やさしいのにどこか底の見えない響きがあった。
ぼう然としている俺の手を、彼がそっと取る。
ひんやりとした指先が触れ、思わず心臓が跳ねた。
「でも、もし――香りを残したいなら、僕の香りにしておこうか?」
「え、えぇ……?」
ラベンダーが一歩近づく。
息が触れる距離。
その瞬間、淡いハーブの香りがふわりと広がった。
穏やかで落ち着くのに、ほんの少し甘く、熱い。
「だってさ、あいつなんかより、僕の方がいい香りなんだよ?」
囁くような声。
指先が絡む。
その温度が胸の奥まで伝わり、息が詰まりそうになる。
「……お前さ、そういうの冗談で言うなよ。」
「冗談じゃないよ?」
ラベンダーが、静かに笑う。
そのまま俺の手の甲に顔を寄せる。
髪が頬に触れて、淡い香りが移った。
「ねぇ、スペア。
この香り、ちゃんと感じて。――僕の香りだよ。」
やわらかく、でも確かに。
その声には、ゼラニウムの薔薇よりも濃い独占の匂いがあった。
風が廊下を抜けていく。
さっきまで胸ポケットにあった赤い香りの代わりに、
今、俺の手には淡い紫の香りが残っていた。
(……ここ、本当に“穏やかな学園”なのか?)
ハーブの香りに包まれながら、俺はひとり苦笑した。
香奏院の午後は、今日も静かで――そして、少しだけ甘かった。




