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転送の光が収まると同時に、鼻腔を刺すような冷香が走った。
白い花弁が雪のように舞う。
だが、その美しさはどこか人工的で――まるで命のない花の香りだった。
「……ここが、西頁……」
スペアが息を呑む。
周囲には、精緻に組まれた香陣が浮かび上がり、
無数のデータ片が香気粒子となって空中を漂っていた。
「これ……香りを記録するための装置?」
ジャスミンが眉を寄せる。
「うん。再構築用の香り構造式。
精油を分解して、再現可能な“人工香”に変換する仕組みだ」
ペッパーが答えた。
そのとき――空気がひときわ冷たくなる。
白い花弁の中から、足音がひとつ。
「ようこそ、香奏院の皆さん」
姿を現したのは、白橙の花を胸に飾る青年――ネロリだった。
白銀の髪、氷のような瞳。
彼の周囲に漂う香りは、静謐でありながら圧倒的に無機質。
「ネロリ……!」
オレンが前に出る。
「兄さん、じゃなかった……お前、まだノートに……」
「“まだ”じゃない。もう、戻れないんだよ」
ネロリの声は澄んでいた。
「混ざることでしか存在できない君たちとは違う。
僕は、一つで完結する香りを選んだ」
「完結なんかしてねぇだろ!」
オレンが叫ぶ。
「その香り、もう温もりがねぇ!」
ネロリの指が軽く弾かれる。
空間がひび割れ、香気の刃が無数に走った。
冷たく、鋭く、感情の欠片もない攻撃。
「下がれ、オレン!」
ペッパーが咄嗟に前へ。
黒胡椒の香りが弾け、衝突の音が空間を震わせる。
ラベンダーの香気が波のように広がり、衝撃をやわらげた。
「眠りの香気、拡散……抑制する……」
その声は穏やかだったが、額には汗が滲む。
「ラベンダー、無理すんな!」
ゼラニウムが鏡を掲げ、反射陣を展開。
「美は攻撃にもなる――“光華反射”!」
香気の閃光が弾け、ネロリの攻撃を打ち返す。
白と黒、二つの香りが交錯し、空間に火花のような香波が散った。
だがネロリは微動だにしない。
「無駄だ。君たちの香りは混ざる前提で作られている。
僕の香りは独立を理想として構築されている。干渉できない」
スペアが歯を食いしばる。
「孤立って……それ、生きてるって言えるのかよ!」
「命なんて、曖昧なものさ。
僕が欲しいのは、変わらない形だ」
ネロリの香気が強まる。
周囲の空気が凍りつくように固まり、香陣が円を描く。
「スペアミント――君の香りは、“共鳴”の核だ。
ノートの人工香を完成させるために必要な要素。
――だから、奪わせてもらう」
次の瞬間、空気が砕けた。
ネロリの香りが刃のように伸び、スペアを包み込もうとする。
「させるかっ!」
オレンが割って入った。
橙の香りが広がり、ミントの風と重なって白橙を押し返す。
「……オレン」
ネロリの瞳が揺れる。
「どうして、まだ“混ざろう”とする?
お前の香りはもう、壊れているだろ」
「壊れてねぇよ!」
オレンの声が響く。
「お前がいなくなっても、みんなと混ざって笑って、泣いて……
それで香りは続いてるんだ!」
ネロリが息を飲む。
その瞬間、オレンの香気が爆ぜた。
オレンジとミント、黒胡椒とラベンダー、
いくつもの香りが重なり、柔らかく輝く蒸気を生んだ。
――混ざるのではない。響き合う。
ネロリの周囲の白香が崩れ落ち、
わずかに“温かい橙”の光が彼の胸元に残る。
「……こんな香り、久しく感じなかった」
ネロリが微笑む。
「やっぱり……君は太陽みたいだな、オレン」
だがその時――
空間の中心に、紫の裂け目が走った。
ヴァイオラの声が響く。
「干渉が強すぎる。――ネロリ、記録を優先しなさい」
「っ、ヴァイオラ……!」
スペアが振り向くが、見えない力が香りを掴む。
オレンの身体が光に包まれ、引きずられていく。
「オレン!!」
スペアが手を伸ばす。
だが――ネロリがその腕を掴み、笑った。
「僕の香りは……一つで完結する。でも、最後くらい――混ざっても、いいかもな」
次の瞬間、ネロリの身体が光の中へ飛び込む。
オレンを突き飛ばし、代わりに裂け目に飲み込まれた。
「ネロリ――ッ!!」
オレンの叫びが響く。
白橙の花弁が散り、彼の香りが空へと昇っていく。
穏やかな、柑橘と花の香り。
それは、冷たい人工香ではなく――
人の心を残した、最後の“生きた香り”だった。
オレンは膝をつき、拳を握った。
「……兄貴。今度こそ、混ざれたな」
ペッパーが肩に手を置き、スペアが静かに頷く。
「……行こう、次の頁へ。
あいつの香りが、まだ先を指してる」
ラベンダーが目を閉じ、淡い光の糸を結ぶ。
「南頁――反応あり。……きっと、次はアンバーだね」
ゼラニウムが鏡を閉じ、静かに呟いた。
「白橙の香り、ちゃんと記憶しておくよ」
転送陣が再び光を放つ。
オレンは振り返らずに、一歩前へ進んだ。
「行こう。次は――南頁だ」
その声に応えるように、
西頁の花弁が音もなく散り、温かな風が吹き抜けた。




