5-2
――白頁の空気が、震えていた。
香りが形を持ち、光が波紋のように揺れる。
ムスクの香気は甘く、濃く、どこまでも侵食的だった。
快楽と苦痛を同時に呼び起こすような、危険な香り。
「この匂い……心まで溶けるみたいだ……!」
ラベンダーが息を呑み、思わず距離を取る。
「下がれ。ここから先は俺がやる」
ペッパーが一歩前へ出た。
黒胡椒の香りが弾け、空気に火花のような刺激を走らせる。
その香りは熱く、鋭く、そして痛いほど真っ直ぐだった。
「へぇ……まだそんな強い匂いを出せるんだね」
ムスクが笑う。
「でも、覚えてるか? 君の香りは他人を打ち消すんだ」
ペッパーの手が止まった。
その一言が、胸の奥の古傷を抉る。
「……そうだ。俺の香りは、他人の香りを焼いた。
“混ざる”前に、相手の匂いを消してしまった。
……それ以来、誰とも一緒にいられなかった」
静寂が落ちた。
白頁の霧の中で、ムスクがゆっくりと首を傾げる。
「僕は逆だよ。
誰かに混ざりたくて、混ざりたくて――壊された。
快楽と痛みの境界が、わからなくなるまでね」
ムスクの瞳に、薄く涙のような光が宿る。
「だから僕は、“感じる”ために奪う。
混ざれないなら、せめて記録の中で香りを永遠に閉じ込める」
ペッパーはその言葉に目を伏せた。
「……お前、焼かれたのか」
「そう。君も分かるだろ。
ただ、君の傍には香りを許してくれた誰かがいたんだろ?」
そのとき、背後からスペアが歩み寄った。
静かに、ためらいもなく、ペッパーの手を取る。
「……俺は、焼かれてなんかないよ」
ムスクが息を止めた。
スペアの瞳はまっすぐで、穏やかだった。
「ペッパーの香り、あったかくて落ち着く。
焦げたんじゃない。包まれてる感じがする」
ペッパーの瞳が、かすかに揺れる。
「……お前、そんなこと……」
「だから、もう自分の香りを罪なんて呼ぶなよ」
その瞬間、空気が変わった。
黒胡椒の香気が柔らかく広がり、
今までの鋭さとは違う、優しい熱を帯びていく。
ムスクの表情が、初めて崩れた。
「……どうして、そんな匂いが出せるんだ。
打ち消す香りなのに……どうして、混ざれるんだよ……!」
「ただ、認め合ってるだけだ」
ペッパーが静かに答える。
「それが――“共に香る”ってことだ」
ムスクの身体が震え、香気が乱れる。
黒く染まっていた空気の中に、かすかに透明な光が混ざった。
「……馬鹿だな。
そんなこと、できるわけ――」
ムスクの言葉は風に溶けた。
スペアのミントの風が吹き抜け、
残った香りを優しく包み込んでいく。
混ざるのではなく、溶け合う香り。
破壊ではなく、理解の波。
ムスクは最後に小さく笑った。
「……ああ、こんな匂い、初めてだ」
その香りがふっと軽くなり、霧の中へと消える。
甘くもなく、苦くもない――ただ穏やかな残香だけを残して。
ペッパーはそっと目を閉じた。
「……あったかくて、落ち着くか。
ほんと、お前ってやつは……」
スペアはにっと笑う。
「うん。お前の香り、俺は好きだよ」
白頁の霧が静かに晴れていく。
残るのは、ふたりの香りが重なった、やさしい余韻だった。




