3-1 二つの柑橘、分かたれた香り
夜の香奏院。
静けさを破るように、警報の音が響き渡った。
香気塔の方角から、香気結界の警告波が立ち上がる。
「……外部香、侵入確認――!」
寮の廊下に警報灯が赤く瞬き、スペアは飛び起きた。
隣では、オレンもすでに体を起こしていた。
「スペア、何かあったのか?」
「香気塔だ。……異香班の出動信号が出てる」
「お前、行くのか?」
「もちろん。俺は異香班だから」
オレンは一瞬だけ迷ったように息をのんだ。
けれどすぐに頷く。
「……なら、俺も行く」
「いや、オレンは献上側だろ? 巻き込みたくない」
「同室の相棒を放っとけるわけないだろ。
それに――最近、俺の香りも乱れてる気がする。
何かが、もう学園の中に入り込んでるんだ」
スペアはわずかに黙り、苦笑する。
「……分かった。でも、無茶はすんなよ」
「それは俺のセリフ」
二人は廊下を駆け抜け、夜気の中へ飛び出した。
香気塔の上空では、銀色の光がゆらめいている。
まるで空が呼吸しているように、結界が波打っていた。
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塔の扉を押し開けると、
紫の靄が室内を満たしていた。
そこに立つ二つの影――ムスクと、そして白橙の花を思わせる冷たい香り。
「……あれは……!」
スペアの隣で、オレンの体が硬直する。
月明かりに照らされたその横顔には、懐かしさと痛みが浮かんでいた。
「久しぶりだね、オレン」
静かに声を発したのは、ネロリ。
オレンと同じ柑橘の香気を帯びながら、
それを冷たく研ぎ澄ませたような青年だった。
「……ネロリ、まさか――」
「君の香りは変わらないね。
相変わらず混ざりすぎて、誰のものか分からない」
オレンが一歩前に出る。
「ネロリ……お前、生きてたのか」
「“生きてた”――? 半分正解だけど、もう半分は間違いだ。
僕はもう、“生命”ではなく“構造”だ。
香りは心じゃなく、理論で保たれる。
――それが、僕の選んだ道だ」
ムスクが横で笑みを浮かべた。
「兄弟の再会ってやつか? 甘ぇな。
けど悪ぃな、今夜は実験の時間でね」
その指先が弾けた瞬間、空気が爆ぜた。
甘く危険な香り――それは、生きていないのに侵食してくる。
「スペア、下がって!」
オレンが前に立ち、香気を展開する。
柑橘の波が塔内を駆け抜け、人工香の粒子を押し返した。
だがムスクは笑う。
「へぇ、悪くねぇ香り。
でも“生きてる香り”は、崩れやすいんだよ」
人工香が渦を巻き、柑橘の光を侵食していく。
その背後で、ネロリが静かに言葉を紡ぐ。
「僕らは“混ざらない香り”を創る。
他者に依存せず、単体で完成する香りを。
――オレン、君も知ってるだろ?
“混ざれば、誰かが薄まる”って」
「……違う」
オレンの声が強く響いた。
「混ざることで、香りは広がるんだ。
誰かと交わることでしか生まれない香りがある!」
ネロリの瞳がかすかに揺れる。
「……まだ、そんな夢を見てるのか」
「夢じゃねぇ。
スペアと過ごして、みんなと支え合って、
俺は知ったんだ。
――混ざることは、“失う”んじゃなく“生きる”ことだ」
塔の中央、柑橘の香りが光となってはじけた。
白と金の輝きが交錯し、ネロリの人工香を押し返す。
ムスクが舌打ちする。
「チッ、めんどくせぇ。もう引くぞ、ネロリ」
「……そうだね。データは取れた」
ネロリは静かに目を閉じ、
「やっぱり君は、僕と正反対だ。
でも、嫌いじゃないよ」と呟いた。
紫煙が弾け、二人の姿が掻き消える。
残ったのは、甘く冷たい人工香と、
それに打ち勝つように残る温かい柑橘の香り。
オレンは息を整えながら、塔の床に膝をつくスペアを支えた。
「……スペア、大丈夫か?」
「うん……オレンの香りが、守ってくれた」
オレンは少し笑って、窓の外を見た。
「……あいつ、俺のいとこなんだ」
「ネロリが……?」
「ああ。けど、もう“精油”じゃない。
魂じゃなく、構造でできた“香り”になってた」
塔の外では夜風が吹く。
人工の銀色と、生命の柑橘。
相反する香りが、同じ風の中で静かに混ざっていった。
――その遠くで、ヴァイオラの声が微かに響く。
「柑橘の血脈……二つの香り。
“混ざる”か、“分かたれる”か――
どちらが真に美しいか、そろそろ決めましょう」




