2-5
夕暮れの香奏院。
中庭を渡る風が、どこかざらついていた。
花の香りが混じるはずの春風の中に――“何か別の匂い”が混ざっている。
(……おかしい。これは、生命の香りじゃない)
精油として生きるようになって以来、香りの“違和感”には敏感になった。
それなのに、今の風はどこか冷たい。
香りの輪郭だけが残っていて、心の温度がない。
首筋にぞくりとした寒気が走る。
吸い込むたび、胸の奥が重く沈むような――そんな感覚だった。
「スペア?」
振り返ると、オレンが立っていた。
穏やかな笑顔の奥に、少しだけ心配の色を宿して。
「どうした? ぼーっとして」
「……風の匂い、変じゃないか?」
「風の匂い? んー……花粉かな?」
「いや、違う。
生きてる匂いじゃないんだ。
まるで、誰かが香りを――“模倣してる”みたいで」
オレンは眉をひそめ、風を嗅ぐように息を吸った。
けれど首をかしげて笑う。
「俺にはわかんないな。
でも、スペアが言うなら……たぶん何かあるんだろう」
その瞬間、遠くの香気塔が小さく震えた。
空気の中に淡い銀光が走り、粉のような粒子がちらちらと漂う。
「……っ、今の、見た?」
「ああ。
光ってた……香気粒? でも、色が違う。銀色だなんて」
スペアの胸の奥、香気核がかすかに反応する。
まるで“違う周波数”の香りが、触れてはいけない領域を撫でていくように。
「これは……人工香の粒だ」
「人工香?」
「うん。生命じゃなく、構造で作られた香り。
――アロマオイルの成分だよ」
オレンの表情が引き締まる。
「ノート……か」
「たぶん。
けど、どうやって学内に? 結界は外部香を拒むはずなのに……」
スペアは決意したように顔を上げた。
「ローズマリー先輩に報告しよう。
……たぶん、これは放っておいちゃいけない」
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夜、調香室。
ステンドグラス越しに、月の光が紫色に滲んでいる。
机の上では、香炉の煙が静かに漂っていた。
「――人工香の流入?」
ローズマリーの低い声が響く。
報告を受けたスペアとオレンの前で、彼は顎に手を当て、思考を巡らせていた。
「香気塔の結界は、精油の“心”を媒介にしている。
つまり、生命を持たない香りは反応しづらい」
「心がないから、見えない……ってことですか?」
スペアが尋ねる。
「そうだ。
だが逆に言えば――“心を持たない香り”だけが、結界をすり抜けられる」
その言葉に、オレンの顔が険しくなる。
「じゃあ、ノート側の香りは……アロマオイルなんですね」
「そうだ。
彼らは生命の香りを“構造”として再現しようとしている。
魂も感情も削ぎ落とし、“変わらない香り”を作るためにな」
ローズマリーはゆっくりと視線を上げ、窓の外を見た。
夜風がカーテンを揺らし、どこかで金属がきしむような音がした。
「ヴァイオラの香りが、また動き出したのかもしれない……」
「ヴァイオラの……?」
「彼女の思想は、香奏院の理とは真逆だ。
香りは“混ざるたびに穢れる”と信じていた。
だから、魂を混ぜずに融合できる香り――アロマオイルを創り出した」
ローズマリーの瞳に、わずかに苦痛が走る。
それは、過去を思い出す者の表情だった。
「スペア、オレン。
明朝、香気塔の封陣を再構築する。
異香班全員を招集するが……今夜は特に、部屋から出るな。
風が――静かすぎる」
静かすぎる夜。
それは、“何かが侵入した”証でもあった。
部屋を出ようとした瞬間、スペアはふと足を止める。
「先輩……」
「なんだ?」
「この香り、前にも嗅いだことがある気がする。
あの夜……ムスクと戦った時の、あの残り香に、少し似てるんです」
ローズマリーの目が細くなる。
「……なるほど。
なら次に来るのは、奴らかもしれんな」
その言葉が、香炉の煙に溶けて消えた。
夜風が窓を叩く。
外では、再び銀の光が、ゆっくりと校舎の上空を包み始めていた。




