2-3
部屋の灯りは落とされ、カーテンの隙間から月光だけが淡く差し込んでいた。
その青白い光の中で、オレンが静かに俺の腕を掴む。
指の圧は軽いのに、そこから逃れる気配を、身体が忘れてしまう。
「……なあ、スペア」
低く掠れた声が、耳のすぐそばで震える。
近すぎる距離。呼吸と香りが混ざり合って、思考がゆっくりと鈍っていく。
「お前から、まだ黒胡椒の香りがする」
「……訓練で、ちょっと——」
言い訳の途中で、オレンの指が頬に触れた。
その熱が、静かに喉の奥まで広がっていく。
「わかってるよ。でも……それでも気に入らねぇんだ」
掠れた声が、まるで香りのように残る。
指先が頬から顎へ、そして首筋へと滑り、触れた場所を柑橘の余韻が包み込んだ。
「俺以外の香りで、お前が染まってんのが……どうしても、嫌だ」
冗談めかして笑った唇が、すぐ耳の下をかすめた。
息が肌を撫でるたび、鼓動の速さが隠せなくなる。
「……オレン」
「じっとしてろ」
囁きが命令のように響く。
次の瞬間、肩を抱かれ、額と額がゆっくりと触れ合った。
香りと体温が交わる境界で、世界がひとつに溶ける。
オレンの髪が頬をすべり、首筋に息がかかる。
唇が触れるか触れないかの距離で止まり、彼は深く息を吸い込んだ。
「……これでいい。俺の香り、ちゃんと残った」
「そんな、上書きするみたいに言うなよ……」
「上書きじゃない。——確かめてるだけだよ。
俺がここにいるって、お前の身体が覚えてくれるように」
その言葉に、胸の奥がふるえる。
オレンの瞳は冗談の色を失っていて、そこに映るのは俺だけだった。
「お前が他の誰かと並んでても、笑って見てられると思ってた。
でも……無理だな。俺は、お前が“俺の香り”でいる時だけ、安心できる」
頬を撫でる指先が、ゆるやかに髪を梳く。
柑橘の香りが甘く滲み、吐息の温度が混ざり合う。
息をするたび、胸の奥で波が立つ。
「……どう?︎︎黒胡椒の匂い、消えた?」
「うん。代わりに、オレンジの香りが残った」
そう答えると、彼の瞳がふっと緩む。
微笑の奥に、安堵と独占の両方が混ざっていた。
「お前と混ざる香りが、一番落ち着く。
だからさ……これからも、この匂いで帰ってきて」
静かな声に宿る想いが、胸の奥で静かに火を灯す。
香りが残り、夜が溶けていく。
ふたりの間には、まだ言葉にならない熱だけが、確かに漂っていた。




