2-1 侵香 ー闇の風が吹く前夜ー
――あの日の香りが、また夢に戻ってきた。
焼けた草木、焦げた香陣、そして、紫の煙。
香奏院の研究棟で、ヴァイオラがひとり、立っていた。
風に揺れる長い髪と、泣き出しそうな瞳。
「どうして、そんな無茶を……! そんな量を混ぜたら――!」
夢の中の自分が、叫んでいた。
けれどヴァイオラは、微笑んで言った。
「だって――もっと新しい香りを作るためでしょう? ローズマリー」
その言葉と同時に、世界が紫に染まった。
香りが爆ぜ、空が崩れ落ちる。
――そして目が覚めた。
「……っ!」
ローズマリーはベッドから飛び起き、額に手を当てた。
額には冷や汗がにじみ、心臓が痛いほど早鐘を打っていた。
「嫌な、予感がする……」
呟いたその時――
コンコン、と扉が叩かれた。
「ローズマリー先輩! 俺です!」
聞き慣れたスペアの声だった。
寝間着の上にローブを羽織り、ドアを開ける。
「……お前、こんな朝早くに何を――」
「ジャスミンを……取り戻しました!」
その言葉に、ローズマリーの目が見開かれた。
背後に立っていたのは、確かに――ジャスミンだった。
少しやつれてはいたが、その瞳には確かな光が戻っている。
「おはようございます、ローズマリー様。
……私、またこの香りの中に戻ってこられましたわ。」
ローズマリーは一瞬だけ言葉を失い、
やがてゆっくりと笑みを浮かべた。
「……よく帰ってきたな、ジャスミン」
部屋の中へ招き入れ、ソファーを指さす。
ジンジャーも後から入ってきて、机の上にはローズマリー特製のブレンドティーが並んだ。
湯気が立ちのぼり、やさしい甘い香りが部屋を満たしていく。
「落ち着いたらでいい。
どうしてノートに……あいつらのもとへ行った?」
ジャスミンは膝の上で手を組み、俯いた。
そして、ゆっくりと語り始める。
「……私は、香水結びをするたびに、相手の香りを壊してしまったの。
それが怖くて……誰とも混ざれなくなった。
そこへアンバーが現れて、言ったの。
“混ざらなくていい。君の香りは、君だけのものだ”って」
「孤独を救うふりをして、囲い込んだわけか」
ローズマリーが低く呟く。
ジャスミンは苦しそうに微笑んだ。
「でも、あの時……あの場所では確かに、痛みが消えたの。
でも同時に、香りも、心も――鈍っていったわ」
ジンジャーが小さく頷きながら、言葉を挟む。
「アンバーは“完全な香り”を求めてる。
混ざらない、変わらない香り。
そのためにノートは、精油を封じて再構成してるんだ。
ローズマリー先輩……その名前、“ヴァイオレット・ノート”に覚えはありませんか?」
部屋の空気が変わった。
ローズマリーの手が、ティーカップの上で止まる。
紅茶の表面に、微かな波紋が広がる。
「……ああ、ある。
いや、“よく知ってる”と言った方が正しいな」
ジンジャーもスペアも息を呑む。
ローズマリーの目が、遠くを見つめていた。
「彼女は、かつて俺の主人だった調香師だ。
そして、香奏院史上最も危険な調香師――ヴァイオレット・ノート」
名前を口にした瞬間、部屋の香りがわずかに揺れた。
まるで、その名自体が香気を帯びているかのように。
「彼女は、“混ざる”という概念そのものを憎むようになった。
香りが混ざると、純粋さが失われると。
俺が彼女を止められなかったせいで、あの“穢香事件”が起きたからだ」
ローズマリーの声は、淡々としていながらも、微かに震えていた。
ジャスミンがそっと彼を見る。
「……あなたは、彼女を……」
「慕っていた……いや、それだけじゃない。愛していた。
でも、俺は香りを分け合う愛しか知らなかった。
彼女は、香りを独占する愛しか知らなかった」
沈黙が落ちた。
窓の外では、朝の光が少しずつ差し込み始めている。
紅茶の香りが、切なさと共に漂っていた。
ジンジャーが、静かに言葉を落とす。
「つまり、ノートは――ヴァイオラの思想そのものが形を取った存在、ということですね」
「そうだ。
そして今、その思想が“香りを再構築する”という新たな形で、また動き出している」
ローズマリーはカップを置き、ゆっくりと立ち上がった。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「……ヴァイオラが“ノート”を通して暴走する前に、くい止めなければならない。
あの時、救えなかった彼女を――今度こそ、救うために」
スペアは、強く頷いた。
(ローズマリー先輩……
その“救う”という言葉の裏に、
どれほどの後悔と祈りが込められているのだろうか)
――窓の外、香奏院の上空。
見えない香りの波が、わずかに紫へと染まり始めていた。




