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朝の光がまぶしくて、思わず目を細めた。
見慣れた天井。
布団の感触。
――ここは、現実。
(……また、戻ってきたのか)
穢香事件以来、世界を行き来することには慣れていた。
けれど、今回は少し違う。
胸の奥に、何かひっかかるような違和感が残っていた。
廊下の向こうから、ゲームのBGMが聞こえてくる。
リビングでは、姉の綾音がソファでスマホを握りしめていた。
「また“Parfum*Étoile”やってるのか」
「うん! 今ちょうどオレン様のルートなの!」
目を輝かせる姉の声に、俺はほっとした。
けれど、その画面を覗いた瞬間、息が止まった。
(……ジャスミンが、いない)
どこを探しても、あの金糸の髪の男の姿が見つからない。
ステージの並びも、香水献上イベントも、
まるで最初から存在していなかったように修正されていた。
「なあ、姉ちゃん。ジャスミン様は?」
問いかけると、綾音はきょとんとした顔で振り向いた。
「ジャスミン? 誰、それ?
そんなキャラ、このゲームにいないよ?」
その瞬間、背中に冷たいものが走った。
まるで、記憶ごと削除されたみたいに――
姉の声にも、本気の知らなさが宿っていた。
(……ノートが、ここまで……?)
その疑念を抱いたまま、現実の学校を終えた俺は、
放課後のチャイムと同時に再びゲームを起動した。
そして――香奏院の教室に、スペアとして戻る。
夕方の光がカーテンを染めていた。
教室には、オレンとジンジャーがいた。
「やっと戻ったか。顔色悪いぞ?」
オレンが心配そうに覗き込む。
「……現実の世界で、ジャスミンが消えてた。
姉ちゃんのゲームの中からも、記録が……」
ふたりの表情が一瞬で固まった。
ジンジャーがタブレットを取り出し、
淡々と香奏院のデータベースを開く。
「……なるほど。興味深いね。
もしこの世界がゲームの一部だとしたら、
ノートに奪われた精油は、存在そのものが
“シナリオデータから消去される”ってことになる」
「つまり……プレイヤーにも忘れられるってことか」
オレンの声が低く落ちる。
「うん。記憶の上書き。
ゲームを管理してる“香りの構造”に干渉してるんだ」
ジンジャーの瞳が、わずかに揺れた。
科学的な興味と、どこか冷静すぎる分析。
「……でも、ジャスミンにとっては、それが幸せなのかもね」
「……は?」
オレンが目を見開く。
「彼はずっと苦しんでた。
香水結びをすると、相手の香りを支配してしまう。
“自分の香りで誰かを壊すくらいなら、一人でいたい”って。
だったら今の方が――自由だよ」
その言葉に、胸がずきりと痛んだ。
まるで、取り戻そうとしていること自体が、
彼の意志を踏みにじる行為のように思えて。
(……本当に、取り戻すのが正しいのか?)
沈黙の中、窓の外が少しずつ夕焼けに染まっていく。
---
夜の香奏院寮。
カーテンの隙間から、月明かりが差し込んでいた。
二人用のベッドには、オレンと俺――スペアが並んで横になっている。
天井を見上げながら、今日の出来事が何度も頭をめぐった。
ジャスミンのこと。
現実世界で、姉の記憶からも彼の存在が消えていたこと。
胸の奥が、どうしてもざわついて眠れない。
隣のオレンが寝返りを打つ音がした。
月明かりに照らされた横顔が、穏やかに光っている。
「……なあ、スペア」
低く、柔らかい声。
寝息に溶けるようなトーンで、オレンが囁いた。
「もしかして……まだ悩んでる?」
目を閉じたまま、少しだけ間を置いて答える。
「……わかる?」
「うん。
同じベッドで寝てたら、わかるよ。
お前は考えごとがあると息が浅くなるからな」
そんなことまで気づかれていたのか、と苦笑が漏れた。
でも、心のどこかで少しだけ救われた気もした。
「……ジャスミンのこと、だよな」
オレンの声は静かだった。
まるで、夜の香りに溶けていくみたいに。
「彼を取り戻すべきなのか、迷ってるんだ。
もし今の方が、あいつにとって楽なら……それでいいのかもって」
しばらく沈黙が流れたあと、オレンがゆっくり体をこちらに向けた。
彼の香り――あの、柑橘の甘さがふっと近づく。
「……でもさ。俺は今、すごく幸せだよ」
「え?」
「スペアと一緒にいる。
香水結びで香りが混ざる。
それだけで、“生きてる”って感じるんだ」
オレンの手が、布団の下でそっと俺の手を探す。
指先が触れ合った瞬間、心臓が跳ねた。
「ジャスミンだって、本当は寂しいと思う。
あいつの香りは綺麗で、華やかで、
だからこそ誰かに混ざりたいって、ずっと思ってたはずだよ」
言葉の合間に、オレンの吐息が頬をかすめる。
そして、静かに顔が近づいた。
――キス。
短く、やさしく、唇が触れる。
「俺は今、こうしてるとすごく幸せ。
スペアはどう?」
耳元に落ちる声が、熱を帯びていた。
胸の奥に灯がともるように、あたたかくて、少し切なかった。
「……俺も。オレンといると、落ち着く」
オレンが微笑むのが、近くでわかった。
その笑みは、言葉よりもやさしくて、
香りよりも確かな温度を持っていた。
「じゃあ、決まりだね」
「決まり?」
「ジャスミンを取り戻そう。
どんなに強い香りでも、
ひとりで漂うのは――寂しいだろ?」
その声が、心の奥に静かに染み込んだ。
月明かりがゆらめき、ベッドの上でふたりの影が重なる。
オレンの香りと、ミントの風が混ざり合って、
夜がほんの少し、やさしく香った。




