1-3
昼下がりの香奏院は、春の香りに満ちていた。
けれど、オレンの眉間にはかすかな皺が寄っている。
「……なあ、スペア。圧搾の果汁、今日のはちょっと違う」
いつもなら軽やかに弾ける柑橘の香りが、どこか鈍い。
オレンの手元に並ぶ瓶の中で、アロマ水がわずかに濁っていた。
スペアが見ても分からないほどの微差――けれど、彼の鼻は正確だった。
「そんなに変か? 昨日と同じやり方で絞ったはずなんだけど」
「うん、でも澄んでない感じがする。……香りの流れが、鈍い」
その頃、ゼラニウムは鏡の前でため息をつき、
「肌の調子が悪い……香りの張りが出ない」とぼやいていた。
ラベンダーもまた、いつもより早く居眠りをはじめてしまう。
穏やかな香奏院に、ほんの小さな濁りが広がりはじめていた。
そんな空気の中、香水結びに苦手意識を持つひとりの精油――ジャスミンが、
中庭の片隅でひとり膝を抱えていた。
彼の香りは強すぎる。
香水結びを行えば、相手の香りを“打ち消してしまう”。
優しくしたいのに、触れた相手を壊してしまう――
そのジレンマが、彼の笑顔を少しずつ曇らせていた。
「……そんな顔、似合わないね」
不意にかかった声。
振り向くと、そこに立っていたのは金色の瞳をした男――アンバー。
穏やかな微笑を浮かべ、彼は距離を詰めてくる。
「君の香りは強い。でも、それは悪いことじゃないよ。
ねえ……“誰かに合わせる”香りなんて、もうやめてもいいんじゃない?」
ジャスミンは一瞬だけ息をのむ。
そして、ふっと笑った。
「……そんなふうに言ってくれる人、初めてだわ」
「調香師のために香水結びをして、自分の香りを殺すなんて、悲しいだろ?
君の香りは“個性”だ。誰にも縛られず、君だけの香りとして世界に残せばいい」
「私だけの……香り……?」
アンバーは静かに頷く。
その声音は、まるで眠りを誘うように甘やかだった。
「うん、君の香りは本当に繊細で……他にはない、特別なものだ。
でも香奏院じゃ、それが活かしきれていないだろう?
ねえ、そんな場所で、まだ自分を閉じ込めていたいのかい?」
ジャスミンの胸の奥に、小さな灯がともる。
誰にも理解されなかった孤独を、この男は自然に受け止めてくれる。
その優しさが、罠だとは気づかないまま。
日が沈み、月が昇るころ。
香奏院の影の方へ、ふたりの姿が消えていった。
――夜。
香気塔の裏で、オレンとスペアは再び調香室の異変を確かめに向かっていた。
アロマ水の濁りの原因を探すためだ。
「……なあ、スペア。あそこに、誰かいる」
オレンが指差す先――
月明かりに照らされ、ひとり立つ影。
ジャスミンだった。
「ジャスミン? こんな時間に……何してるんだよ」
声をかけると、彼は一瞬だけ微笑み、けれど目がどこか遠い。
「スペア、オレン。……ありがとう。
でも、もう私、ここにはいられないの」
「は……? 何言って――」
その時、背後の霧が揺れた。
ムスクの甘い香り、そしてアンバーの穏やかな声が重なる。
「迎えに来たよ、ジャスミン」
ムスクが手を差し出す。
アンバーは微笑みながら、スペアたちに視線を送った。
「彼はね、ようやく自由になれたんだ。
君たちの“香水結び”の中で消えかけていた本当の香りを、取り戻すために」
「行くな! ジャスミン!!」
スペアの叫びが夜に響く。
けれど、ジャスミンは静かに首を振った。
「私の香りが誰かを傷つけるくらいなら……
いっそ、誰にも触れない場所で生きたいの。
ノートなら、それができるわ」
その言葉とともに、彼はアンバーの手を取った。
紫の霧が立ちこめ、三人の姿がゆっくりと溶けていく。
「待て――!」
オレンが駆け寄るが、霧の向こうに届かない。
甘く、冷たい香りだけが残る。
静寂の中で、スペアは拳を握りしめた。
(……香りを奪うだけじゃない。
今度は、心までも――)
夜風が吹き抜け、残り香が淡く揺れた。
それは、ジャスミンが残した最後の香りだった。




