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夜の香奏院は、昼とは別の顔をしていた。
昼間あれほど澄んでいた香りが、夜になるとまるで息を潜めたように静まり返る。
どこかで、香気そのものが耳を澄ませているような気さえした。
(……ローズマリー先輩の言葉、守れなかったな)
部屋を抜け出した足取りは、思っていたより軽かった。
でも心の奥は、ずっとざらついていた。
南区で起きた“第二の精油消失”。
報告を受けたのは夕方だった。
またひとり、香りごと“消えた”という。
「じっとしてられないでしょ?」
背後から、いつもの調子で声がかかる。
ジンジャーだ。
手には香感センサーと試験管を抱えて、にやりと笑っている。
「ほんとは先輩に怒られるけど、こういう時は動いたほうが早いよ」
「……だよな」
結局、俺たちは同じことを考えていたらしい。
南区の香気塔の裏側――。
夜の風が吹き抜け、建物の影がゆらゆらと揺れている。
そこだけ空気の密度が違う。
息を吸うたび、肌にまとわりつくような、重い匂い。
「……甘いな」
「うん。柑橘でも花でもない。動物系……“ムスク”だ」
ジンジャーの声が低くなる。
その瞬間、周囲の空気がひとつ震えた。
「――察しがいいねぇ、精油くんたち」
闇の奥から声がした。
ねっとりと甘い、それでいてどこか危険な香り。
月光に照らされたその姿は、銀髪で、瞳の奥が赤く光っていた。
「ムスク……!」
「ご名答。
でも捕獲対象に名前を呼ばれるのは、ちょっと照れるな」
微笑んだその顔は、獣にも人にも見えた。
周囲の香気が一気に乱れる。
重い甘さが、喉を締めつけるように広がっていった。
「……お前が、エレミを――」
「“奪った”なんて言い方は、やめてくれよ。
俺たちはただ、縛られて可哀想な香りを“解放”してやっただけだ」
解放。
その言葉に、胸の奥がひやりとした。
「ノート、だな。お前もあいつらの仲間か」
「へぇ、もう辿り着いたのか。
優秀じゃん、ミントくん」
その呼び方に、背筋が粟立つ。
ムスクの声は、香りと同じで絡みついて離れない。
「精油――つまり君たちは“自然の香り”だ。
心で香りを混ぜ、魂を結んで進化する。
でもそれは、不安定で、壊れやすい。
少しでも心が乱れれば、香りは濁る」
彼の瞳が細められる。
「俺たちが創っているのは、“人工香”。
魂を削ぎ落とした、永遠に再現できる香りだ。
心に左右されない完璧な調香――それがノートの理想なんだよ」
「……それで他人の香りを奪うのか?」
「違う。
借りるだけさ。
君たち精油の“命”を、より長く残すために」
ムスクがゆっくりと手を伸ばす。
空気が歪み、淡い煙が舞い上がった。
紫がかった香気が俺たちを包み込む。
「やばい、香気制御が――!」
ジンジャーが叫ぶ。
視界がぼやけ、体の奥がどんどん軽くなる。
吸い込まれるような感覚。
「離れろ! ジンジャー!」
「だめだ、スペア! これは、術式じゃない……“香りそのもの”だ!」
ムスクが一歩踏み出すたび、足元に円が浮かぶ。
それは見たことのない紋章――封印と記録の複合陣。
「そんなに怖い顔しないでよ。
俺はただ、君を“ノート”に迎えたいだけさ」
その笑みが、月光を受けて歪んだ瞬間。
「――香断陣!」
別方向から、鋭い声が飛び込んだ。
閃光が走り、紫の煙を切り裂く。
ムスクが目を細めて振り向く。
そこに立っていたのは――ペッパーだった。
「精油への捕獲行為、ならず者の仕事だな」
黒のコートを翻し、彼は香杖を構える。
「……黒胡椒か。面倒な奴が来たな」
「引け。ここは学内だ」
「言われなくても、今日は挨拶だけさ」
ムスクは笑みを浮かべると、霧のようにその場から姿を消した。
残ったのは、甘く危険な香りと――紫色の封印紋の欠片。
ジンジャーが息を吐く。
膝をつく俺の肩を支えながら、かすかに笑った。
「……危なかった。やっぱり僕は戦闘向きじゃないな」
ペッパーは落ちた封印紋を拾い上げ、険しい顔をする。
「スペア、外に出るなと言われなかったか?
お前は危なっかしくて放っておけない。……報告は俺がする。ローズマリー先輩にもな」
その名を聞いた瞬間、胸の奥がざわめいた。
――あの人は、何を知っている?
ノートと、ヴァイオレットという名前の間に、どんな過去がある?
夜風が吹き抜ける。
ムスクの残り香が、まだどこかで微かに漂っていた。
それは、甘く、危険で――確かに生きている香りだった。




