ヴァイオレット・ノート編 プロローグ
穢香事件から、季節がひとつ巡った。
あの騒動が嘘みたいに、香奏院はすっかり落ち着きを取り戻していた。
校舎の中を歩くと、甘い花の香りとミントの風が入り混じる。
みんな笑っていて、誰もが穏やかな顔をしている。
少し前までこの場所で命懸けの戦闘をしていたなんて、信じられないくらいだ。
俺――スペアミント、いや、一葵は、ようやくこの世界での暮らしに慣れはじめていた。
現実では学生、ここでは精油。
二つの世界を行き来する生活も、最初の頃ほどしんどくはなくなってきた。
制御訓練も安定して、ブラックペッパーの地獄みたいな特訓もやっと終わったところだ。
異香班は久々の休日。
ラベンダーは中庭で昼寝、オレンは訓練後に柑橘組と会議中。
ゼラニウムは……鏡の前で「今日も完璧」とか言ってる。
それぞれが好きな香りに包まれて、何も起きない平和な日常。
――あの頃、ずっと願ってた普通の時間だ。
夜になっても、その余韻が残っていた。
食堂で軽く食事を済ませて、部屋に戻ろうと寮の廊下を歩いていた時だった。
……空気の温度が、ふと変わった。
香りの世界では、異変は匂いよりも先に肌が察知する。
ひんやりした風が首筋を撫でて、背筋がぞくりとした。
何か、おかしい。
角を曲がると、廊下の明かりの下に数人の影が見えた。
ラベンダー、ゼラニウム、オレン、ジンジャー。
それに、ペッパーとジャスミン。
全員の表情が、張りつめていた。
「どうしたんだ?」
空気が張りつめている。
ジンジャーがタブレットを操作しながら、低い声で言った。
「……ミドルクラスの精油、“エレミ”がいなくなった」
「いなくなった? まさか、外出届を出して――」
「違う。完全に香りごと消えてる。」
ラベンダーの声は震えていた。
香陣には痕跡がなく、香感センサーも反応しない。
香奏院のどこを探しても、エレミの香りは一片すら残っていなかった。
ペッパーが静かに言った。
「香りを奪うなんて、本来ありえない。
――外部の介入だ。」
言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
外部。
つまり、香奏院の外に“誰か”がいる。
香りを、奪うことができる存在。
廊下に流れる空気が、妙に重たく感じた。
今まで吸い慣れたミントの風が、少し苦い。
――穏やかな日々が、長く続くとは思ってなかった。
でも、まさかこんな形で終わるなんて。
(また……始まるのか)
そう思った瞬間、窓の外を通り抜けた夜風が、かすかに香った。
嗅ぎ覚えのない、冷たい香り。
それが、すべての始まりだった。




