6-7
全香融合の儀が終わったあと、香奏院は長い夜を越え、静寂に包まれていた。
香陣の中央で、俺――スペアは力を使い果たして倒れていた。
けれど、どこか安堵したように呼吸は穏やかで、夢の奥で誰かの香りを感じていた。
「スペア!」
駆け寄る足音。オレンが俺の身体を抱き起こす。
頬に触れる手は温かく、柑橘の香りがすぐそばにあった。
胡椒の気配が寄り添い、ペッパーが低く息を吐く。
「……呼吸は安定してる。大丈夫だ」
その声で、張り詰めていた空気が緩んだ。
結界の光が静かに薄れ、黒い渦が霧のようにほどけて消えていく。
香奏院を覆っていた闇が晴れ、夜明けの光が天窓から差し込んだ。
淡い風が通り抜け、世界に新しい香りが混ざる。
そこへ調香師様が歩み出た。
白衣の裾を揺らしながら、静かに言葉を紡ぐ。
「……見事でした」
その声は柔らかく、まるで祝福のようだった。
「スペアの調律が、全ての精油をひとつに繋げた。
その結果、香りの境界は安定し――二つの世界が共に響き合うようになった。
つまり……“共存”が始まったのです」
ペッパーが深く頷き、オレンは目を細める。
風が吹き抜け、柔らかな香りが広間を包んだ。
「……ゆっくり休め、スペア。お前の香りが、この世界を救った」
オレンの指が髪を撫でる。
ミントとオレンジが重なり、温かい風が上へ昇っていった。
――香奏院に、新しい朝が訪れた。
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柔らかな光が差し込む寮の部屋。
白いカーテンが風に揺れて、どこか懐かしい音を立てている。
ゆっくりと目を開けると、見慣れた天井。
そしてベッドの脇で、オレンが目を見開いた。
「スペア……! 起きたのか!」
手を握られて、自然と笑みがこぼれる。
「……ただいま、オレン」
「おかえり」
その言葉には、心の底からの安堵が滲んでいた。
少しの沈黙のあと、オレンは真剣な顔で言った。
「なあ、スペア……いや、“一葵”。
これからも、俺と一緒にいてくれるか?」
胸の奥が熱くなる。
ミントの香りが静かに空気を満たした。
「……もちろん!」
頷くと、オレンがふっと笑った。
その笑顔は、まるで新しい朝日のように眩しかった。
「さあ、みんなお前を待ってる。行こうぜ」
差し出された手を取る。
温もりが指先から心まで伝わってくる。
二人で廊下を駆け抜けた。
窓の外では花が咲き、春の光が世界を染めている。
扉を開けると、広間には仲間たちの姿。
ジャスミン、ラベンダー、ゼラニウム、レモン、グレープフルーツ、ティーツリー、パチュリ――そしてブラックペッパー。
「お前の香りは、この世界を守った」
ペッパーが静かに微笑む。
俺は首を振り、少し照れながら答えた。
「俺の方こそ……みんながいたから、できたんだ」
その言葉に、広間が笑い声で満たされる。
花の香り、柑橘の香り、胡椒の香り――すべてが調和し、穏やかに混ざり合った。
(……あぁ、俺は今、確かにここにいる)
ミントの風が吹き抜け、世界が静かに息をする。
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――そして、現実の世界。
久城一葵は、ゆっくりとまぶたを開けた。
柔らかな朝の光。
リビングの机の上には、小さな香水瓶。
瓶の中で、淡いミント色の光が揺れている。
(……覚えてる。あの世界の、あの人の香りを)
指でそっと蓋を撫でる。
ほのかに香るミントと柑橘。
――オレンの声、ペッパーの瞳、あの世界の空気。
全部が胸の奥で生きていた。
ふと、スマホの画面に目をやる。
時刻は――まだ翌日の午前八時。
ゲームのコントローラーを握ったあの時から、ほんの数時間ほどしか経っていない。
(……うそだろ。あっちは、一ヶ月も過ごしたのに)
指先が震える。
けれど、現実の時計がどうであれ、心の中には確かな時間の重みが残っていた。
あの春、あの光、あの香り。
全部が“ほんとうにあった”ものとして、息づいている。
そのとき、隣の部屋から聞こえる声。
「わー! このルート最高! スペアとオレンの会話、尊い〜!」
のぞくと、姉の綾音がベッドで『Parfum*転香』をプレイしていた。
画面の中では、あの世界のキャラたちが笑っている。
一葵は、少しだけ苦笑して呟いた。
(……まさか弟がその中にいたなんて、思いもしないだろうな)
けれど、姉の無邪気な笑顔を見て、自然と心が温かくなった。
「ありがとな、姉ちゃん」
小さく呟いて、窓の外を見上げる。
春の風がカーテンを揺らし、部屋にミントの香りが漂う。
それは――あの世界と、この世界をつなぐ、
二つの香りが共存する穏やかな風だった。
一葵は静かに微笑む。
――彼は確かに、二つの世界で生きている。




